僕は東京・武蔵関にある「チャンプルー街」という沖縄料理店でシェフをしている。セブンスローズは、ここで3年前から月に数度ライブをやっている。
私事ながら今年の1月、「チャンプルー街」の名物女将で僕の連れ合いが入院した。手術前の彼女に向けて、当日居合せた一人一人が彼女の手術の成功を祈って語った。そのビデオは翌日彼女の元に届けられた。一人ひとりの熱い想いが彼女に伝わった。その場面に立ち会えなかった人も、そのビデオを見て涙を流した。セブンスローズの歌は、病と闘う彼女への応援歌となった。 沖縄、在日、キーサンをはじめとするミュージシャンが、21世紀(地球史上はじめて、すべての命が大切にされる時代)を創造しようと集まる。勿論セブンスローズは沖縄料理店「チャンプルー街」を代表するバンドとして参加する。そこでセブンスローズは、不器用だが「心情あふるる誠実さ」を武器に21世紀への熱い想いを謳い上げることだろう。いや「武器」でなく、喜納昌吉の言う「すべての武器を楽器に!」新しい時代を疾駆するはずである。 |
「こんにちは! ふみです。『すべての命のチャンプラリズム』の実行委員会に参加しています。国立市谷保の、たべ・のみ・スペース「かけこみ亭」から来ています。 私が花&フィノミナンとはじめてであったのは、おととし(1998年)の夏です。多摩川の河原でひらかれた2回目の「河原で熱くサンタモニッカ2」というお祭りでした。お祭りのスタッフで、その場所(河原!)に住んでいた花(このバンドのボーカルが花くんです。男性です)と一緒にスタッフをやっていたメンバー達・・・若者達の熱〜い想いのつまった祭りのメインステージのラストが花&フィノミナンでした。 その時の花は私にとって日本のボブ・マーリィでした。そのうたは、光り輝く明日にむけてのメッセージでした。音楽の持つ力を感じました。 花は今も河原に住んでいます。時々、立川の駅でうたっています。犬の”じみへん”と一緒に、酔っぱらいのおじさんや仕事帰りのお姉さん、いろんな人が花のうたを聞いていきます。 バンドのまとめ役のベースのアクさんは、ハンディキャップの運転手さん、アクさんのパートナーでギターのカオルさんは援助為センターの介助の仕事をしています。この二人はずーっとバンドをしていて、一時やめていたものの、花に出会って、また、バンドをやろうって思ったそうです。そしてドラムの梵(ぼん)とそのパートナーでジャンベのOLみっちゃん、サックスの山ちゃんも介助の仕事をしています。 この6人に加えて、時々、ピアノのたくじと河原に住んでいるさっちゃんが太鼓で参加します。 花&フィノミナンに出会ってから、もうすぐ2年、いっしょにいろんなお祭りに行きました。バンドの行く所、いつのまにか仲間が集まってきて、いつもにぎやかです。佐渡のドンデン山、佐賀の虹のみさき、宮崎の海、岡山のぐるぐる祭、地元ではサンタモニッカの他、国立の公園で緑日ライブ、東大和、障害者移送サービス(スペース)主催のコンサートなどにも出演しました。 いつもは「かけこみ亭」でマスターのぼけまるさんといっしょに飲んだり、歌ったり、ライブしたりしています。 知念良吉さんのつながりで、「チャンプルー街」の人達とも出会えてうれしく思っています。このイベント「すべての命のチャンプラリズム」でいろんな人に出会えるのも楽しみです。そしていっぱいの人に花&フィノミナンを聞いてもらいたいです。よろしくお願いします。それから・・・「かけこみ亭」にも遊びに来て下さい! |
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亀谷啓子 沖縄県沖縄市出身 亀谷長一郎 浦添市出身 基地の無い平和な沖縄を目指し、もっと沖縄を知らせようと 三線(さんしん)とギターでうたい始めたのが4年前です。 へたな歌でも目を輝かせて聞いてくれる人達に出会い、 たくさんのやさしさと元気をもらって、今ではその感動がやみつき状態です。 沖縄の心「命どぅ宝」(命こそかけがえのない宝)をみんなと一緒にうたっていきたい。 チャンプルー街で人間のあたたかさもひしひしと感じています。 亀谷さんご夫妻が「チャンプルー」に来たのは去年の9月。ようこちゃんとハセぴーが南米・チリの世界精神保健連盟の世界大会に出発した夜のことだった。彼らがいないので、当分静かな営業になるなと思っていた日、沖縄料理店のガイドブックを見て亀谷さんたちがひょっこりと来た。でも入ってきた時から気になっていて、初めてのお客さんなのに唄ってもらうことにした。 彼らが唄いはじめた瞬間、店内は「カーミーズ・ワールド」(沖縄の心「命どぅ宝」 )と化した。あー、本物の歌手がいるなというが第一印象だった。歌だけでなく、ライブの後にご夫妻と話して、熱い心を持った人たちだということを知らされた。 その月の終わりに、中野で沖縄のコンサート「あしびなー祭」があった。知念良吉さんと共にカーミーズも出演していた。演奏が終わった後でゴザの上でオリオリビールを飲みながら、沖縄・軍隊・平和について熱く語りあったことが忘れられない。 僕と同じ50代。だが、心は青年のように熱く燃えている。平和を訴えつづけるカーミーズの「熱」に感染・感動してください。 |
ユニークバンドは精神科の作業所に通うメンバーと職員がやっているバンドです。 但しそういうのにありがちな、福祉・教育、学芸会臭さは薬にしたくも見当たりません。うまいのかへたなんかもよく分かりません。良くわかんないエネルギーとむちゃくちゃさがあります。音楽の良いところは、やってる間は病気も健常者も糞もないところです。 荻窪・グットマンなどライヴもやっているのでよかったら見にきてください。 |
知念さんからチラシのメッセージを依頼されて、最初に書いたものは字数が多くてボツになり、結局「チャンプルーもピビンパも大好き!」という短いメッセージを載せてもらいました。 「かたいメッセージが多かったから、ちょんみさんのは軽くていい」と知念さんからお褒め(?)のお言葉をいただきました。やっぱ軽いかなあ。 私が生まれ育った場所は東京の下町・葛飾で、沖縄、部落、朝鮮、キーさん、おかま、アル中、なんでもありのバタ屋の長屋でした。 物心ついた頃の私は、その場所から逃れたくて逃れたくて仕方がなかった。でも、そこが私のふるさとなんだと、そこが私の生きて行く場所なんだと、今は思っています。 そう思えるようになって、生きることがこんなにも楽になった。 「みんなちがってみんないい」っていうのは、言う人によってはなんとも安易に聞こえる言葉かもしれない。社会から排除された人の痛みを、一緒に痛む想像力がなければ。そんなしなやかな想像力、感性を持った人がもっともっと増えたら、世の中もっと明るくなるのになあ。 で、私はといえば、おばあちゃんになるまでうたい続けたいと思うのです。希望の種をまきながら。 |
三絃(サンシン)を持って沖縄を旅してたら、元気なおじい(おじいさん)、おばあ(おばあさん)達に出会った。辺野古(へのこ)の「命を守る会」の団結小屋で。「子や孫に二度と戦争を味あわせたくない」「辺野古の海は、神様がいらっしゃって私たちを守ってくださってるんだよ」 そんなおじい、おばあ達の思いを無視して、県議会では普天間基地の県内移設、沖縄県北部の振興策付きの基地移設受け入れ表明を名護市は決めてしまう。辺野古に来て、地元の人達への説明もされないままに次々と。その度に、おじい、おばあ達は市役所前につめよって訴えている。 「命をはぐくむ海を、戦争のための基地にしてはならない」と。 内地にもどってある人に言われた。「沖縄の人が今の県知事や市長を選んだんだから、反対と言うのはおかしい」。 くやしくて涙が止まらなかった。おじい、おばあ達がどんな思いで戦ってるか。小さい一部の、少数の人でも、それが正しければ正しいと、私は思う。沖縄に基地を押し付けて、それは沖縄だけの問題だとしか考えない。おじい、おばあ達の思いをふみつけてはならない、と私は思う。 |
うちは,神戸にすんでるうたうたいです。あるときは,有機野菜を売ってる八百屋のうりこをしています。いっしょにやってるギター弾きのおじさんはFMわいわいという、ちいさなコミュニティー放送局ではたらいてます。(わいわいのある、神戸・長田は、まさに、ちゃんぷるー、八言語で放送を続けています) 震災前には、それぞれ別のバンドでやってましたが、いっしょにやろう、と約束したとたん、地震にあいました。うちは被害がかるかったので、いまもしんどい思いしてる人たちの気持ちまでは、代弁できません。けど、ゆりうごかされて、突然みんなからだひとつになって、いろんなおもいがして、あるいてあるいて、地震のおかげでもらったものも、たくさんあるとおもう。うちの兄ちゃんはながいことひきこもり生活をしてるんやけど、地震直後は外に出やすかったそうです。 今、えらいひとたちは、神戸に空港を作ろうとしています。えらい人達は,そんなことばっかりにいっしょうけんめいなので、きもちにずれをかんじてるひとはおおいとおもう。環境にも財政的にも安全的にも疑問のこえをきくほど、なんでそんなにしてまで空港をつくらなあかんのか。???です。 というわけで、4月20日からはじまる市長リコール、代表世話人をひきうけてしまいました。お金がなくてあっぷあっぷ状態です。 もし,カンパしてやろうというひとがいたら、 郵便振替00960−8−152474市長リコール・神戸の会へ。 お問い合わせは,078−371−8201、fAx078−367−3711です。 まだかいてもいいようなので、うちにとっては恩人のはなしをかきます。学生のときに、障害者解放運動にであって、いまにいたるんやけど、いろんなごたごたや、自分の弱さから、しんどくなって、もう離れてしまいたい、とおもったことがありました。そんなころ、すくってもらったのは,Hくんという、とんでもなくなんにもできない、いるだけでみんなたいへん、というひとでした。うちは、キャンプ実行委員というのをしてて、Hくんはじめ、すぐどっかいってしまう人や,お店で暴れる人やら、いろいろみんながいて、ああおもしろい、とおもえたのは、このときでした。Hくんはなんにもいわないけど、かかわるひとの価値観とかなんとか、まるごとひっくりかえしてしまう。あたりまえに,彼が存在してる、よのなかまるごとそうなったら、どんなにかすてきだろうと、おもうのです。 なんだかまとまらん文章で、ごめんなさい! |
樽見、君の肩に霜ふれ眠らざる 視界はるけく火群(ほむら)ゆらぐを この歌に始まる「バリケード・1966年2月」。早大闘争を唄った学生歌人としてデビューする。バリケードの中でぱっと浮かんだ歌をこう・・・・ 書けっこないです。そんな時、歌なんか出てこない。バリケードをはずれた時にたぎってくるわけです。大学が機動隊に封鎖されて、近くの喫茶店に救援対策本部をつくって、そこへ毎日出入りしている。今でも覚えていますけど、喫茶店の2階で、下には機動隊が待機している。冬の雨がガラス窓にたまってふっと流れてきた。その時に「くやし涙のごときひとすじ」っていうフレーズが浮かんだんです。そしたら一気に歌があふれて。 ガラス窓に驟雨(あめ)はあがりていたけれども口惜しなみだのごとき一条(ひとすじ) 第一歌集のあとがきに書きました、短歌は「呼びかけ語りかけ」の詩型であると。その思いは今も変わらない。あの闘争がなければ呼びかける必要はなかった。闘争がなかったら、連帯を求める詩型として短歌をとらえはしなかった。歌をつくり続けていたとしても、もっと自分の美意識に傾斜したものをつくっていたでしょうね。それと、短歌絶叫コンサートなんて思いもしなかった。肉声による直接伝達の詩型、それが短歌なんです。 ◆バリケードの中で福島さんの歌集の海賊版が読まれた。時代も人も、あのころから、ものすご変わってきてしまった。 人間は何も変わりようが無いと思う。もちろん時代や社会に限定されて自分の生き様ってあるんですけど。だけど、自分自身の限界状況は変わっていない。死んでいくんだから、みんな生まれて・・・。だから、生きようとする強い意志だとか、逆境のなかから立ち上がっていく勇気だとか。真実だとか、信念だとか、社会だとか、友愛だとか、熱い涙だとか。そんなものがね、本当に今の青年たちのなかからなくなってしまったのだろうか。僕はそう思いたくない。 敗北の涙ちぎれて然れども凛々しき旗をはためかさんよ 1943年、東京市下谷区入谷(現在の台東区下谷)の寺に生まれる |
私たちは、今回のイベントのため結成した、今回限りのユニットです。 当初、ギター2本にボーカル濱崎直子を迎え、3人で演奏をする予定でしたが、諸事情により、 きっと竹内(弟)は笑ってギターを弾くことと思います。 ”SLOW DANCE”とは、竹内(兄)の頭にポッとうかんだ単語です。 |
はなっから、有罪や 医師資格持ってるおまえら 弁護士資格持つてるおまえら おまえら、なんぼ、金かせいでんねん わしらの、年金やら生活保護、なんぼやねん エエもん喰ろうて 娘やら息子やら大学入れて それで、改革派だってか ナメさらすなよ わしらキチガイをナメさらすなよ 若いころさんざん学習したんちゃうかんいな 下部構造が上部構造を決定する? ほんまかどうか知りようもないが 少なくとも おまえらのそのセーカツが 今のオマエらのそのヘンシツを 生み出したんだろうさ 年間八百万も一千万も 年間二千万も二千五百万も貰ろてからに そんなセーカツ10年以上も続け取ったら 『精神病院解体』『反精神医学』なんて ドブに捨てちまうワナ いっそ自分の年棒全部棒に振ってみいよ 自らの精神病院を解体してみいよ 逆に精神病院が地域の中に拡散しとるがな おまえらは、有罪や はなっから、有罪や 一度十メートル四方の部屋に 30人詰め込められて 歯ブラシ10本と タオル三本で暮らしてみいや そのうえ保護衣を着せられて 拘束帯でグルグル巻きにされて 鉄格子に括りつけられてみいや それでも、先生先生と持ち上げられて 良心派やとでも、改革派やとでも 持ち上げられてへんかったら ほんまは気分悪うて悪うて しゃあないんちゃうかいや おまえらは、有罪や はなっから、有罪や 医師資格持ってるおまえら 弁護士資格持つてるおまえら おまえらは、有罪や わしにとってはな わしの前で無罪を証明せんかぎり おまえらは医師弁護士ちゅうだけで もう有罪や 推定有罪ちゅうやつや わしの前で 200万の精神病者の前で 無罪を証明してみいよ おまえら 推定有罪のやつら |
知念良吉とパラダイスドンドン 歌うこと、旅をすること、CDを制作すること、イベントに関わること、かわいい人と熱い夜をすごすこと、生活すること。それはみんなつながっていて、生きることに他ならない。あなたと僕はこの腐った世の中で、何を求め、何を捨て、どんな風に生きていくんだろう。 1994年に発表したCDアルバム「オキナワンボーイの憂鬱」。その中に収録した『何処へ行くオキナワンボーイ」という歌の自問が、今回のCDアルバム制作のエネルギーです。 唐ぬ世、アメリカ世、大和世と、それぞれの時代の光と影がチャンプルーになつたオキナワという背景は、僕という現象を見つめる旅の入口であり、扉でした。 1年の半分を歌の旅の中で暮らします。その旅の中で染み出る心の汗を、母親のようにふきとってくれるのは、モクマオウの木陰や潮風、娘の笑顔、そして少年の腕のようなイタジイの森であったりします。 歌うことは、僕にとって、自分からの充実した逃避のひとときであり、それを見つめる心の運動です。僕たちは真実を求める振りをしながら、その回りをウロウロし、世界の惨状を嘆くことはすれ、その原因である自分の心のエゴの有様・思惑を見つめることはなかなかしません。 本当のことは自分に求めるものと理解しましょう。さて、どこまで深く降りられるでしようか。 首筋を汗が流れ、風が渡る音がして、イタジイの白い枝と枝の間から・・・8月の青い空・・・。 知念 良吉 |
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