SEVENTH  ROSE 

僕は東京・武蔵関にある「チャンプルー街」という沖縄料理店でシェフをしている。セブンスローズは、ここで3年前から月に数度ライブをやっている。

 「チャンプルー」はいわゆるライブの店ではない。音楽好きの若者が多くを占めるライブ・ハウスと違って、たまたまお客さんとして来た老若男女がオリオンビール・泡盛や沖縄料理を味わいながら、その現場に立ち合わされることになる。当然、食事に来ただけで音楽を聴きたくない人もいる。だから演奏者にとって、とても「シンドイ」場なのだと思う。最初はライブに関心を示さなかった人たちが、ライブが進む中で徐々にミュージシャンの歌世界に引きずり込まれ、音楽を心から楽しむ観客に変化する瞬間を厨房の中で見ているのが、僕のひそかな愉しみである。

 ヴォーカル・稲川さんとの出会いは、彼が僕の店に営業マンとして来ていてバンドをやってるのを知って「唄ってみない?」と言ったのがキッカケだった。それからしばらくして店のメインバンドがライブの最中に、ふらっと稲川さんがやってきた。そしてライブが終わった後で、彼がマイクの前に座った。本当のことを言うと、その時の僕はあまり期待していなかった。でもその期待を見事に裏切ってくれた。メインバンドの後というのに、全然ものおじしない堂々たる唄いっぷりだった。僕は久しぶりに「真直ぐな若者」に出会った気がした。いま考えてみると、そうした唄い方に彼の(セブンスローズの)音楽に対する姿勢がよくあらわれている。
 ライブが終わった後で、よく彼らと討論する。僕は50才を過ぎた熱いオジさんだが、情熱のベーシスト・金沢さん、堅実で爽やかなリードギターの鈴木さん、そしてドッシリと生活に根を張った歌・詞づくりをする稲川さん。熱き心の若者たち。そんな彼らを見ていると思わず嬉しくなってしまう。

 彼らの歌には様々な思い出がある。このアルバムにも収められている「太陽の心」は僕の大好きな曲である。


 「♪どんなに遠く離れていても、空は繋っている。
  どんなに遠く離れていても、あなたは一人じゃない」

 
 原曲は遠く離れることになった友に捧げる歌として作られた歌だが、この曲は僕たちにとって、店の常連客で高齢と病を抱えながら「精神障害者の解放」を目指して日本全国行脚の旅に出た久良木さんとの連帯の歌となった。しかしその彼も今は、この世にいない。

 セブンスローズの歌は発展する歌である。いつの頃からか、稲川さんがこの曲の歌詞を唄い終わった後で、マイクをお客さんに回すようになった。マイクを受け取った人は、その時の自分の心情を語りその後で「♪あなたは一人じゃない!」というフレーズを唄う。時には延々と1時間もそうした熱い語りが続くことがある。その時「太陽の心」は作り手を離れて、その場に立ち会った一人ひとりの「心の歌」へと発展していく。アルバムでもその臨場感が伝わるが、是非、ライブで聴いてほしい曲である。

 私事ながら今年の1月、「チャンプルー街」の名物女将で僕の連れ合いが入院した。手術前の彼女に向けて、当日居合せた一人一人が彼女の手術の成功を祈って語った。そのビデオは翌日彼女の元に届けられた。一人ひとりの熱い想いが彼女に伝わった。その場面に立ち会えなかった人も、そのビデオを見て涙を流した。セブンスローズの歌は、病と闘う彼女への応援歌となった。

 セブンスローズはライブの最後に「一筋に流れる祈り」を唄う。今の僕の活動の中心は沖縄料理店のシェフだが、インターネットを通じて全国の「心の病」を抱えて生きている人たちのサポート活動をしている。一昨年の末、インターネット情報センター「全国ハートネット」を立ち上げた。たまたま稲川さんが店に来たので、「ハートネットのテーマソングを作ってくれない?」と気軽に言ってしまった。後で聞いた話では七転八倒した末に完成したという。誌上を借りて深く感謝します。この「一筋に流れる祈り」は、セブンスローズの音楽観・社会観・人生観が見事に結実した彼らの代表曲と言ってもいいだろう。今の時代と正面から向き合い、切り結んでいる作品である。

 「音楽で世界を変えることは可能か」 これは1960年代後半から始まったフォークソング運動の中で討論された問題である。僕たちは今年の6月「すべての命のチャンプラリズム」と題するコンサートを企画している。「基地をおしつけられた沖縄、選別された障害者・キーサン、引き裂かれた民族・在日、葬り去られようとしているジュゴン、チャンプルー(ごちゃまぜ)の中から新しい命・地球がつくられようとしている」というサブテーマで。

 沖縄、在日、キーサンをはじめとするミュージシャンが、21世紀(地球史上はじめて、すべての命が大切にされる時代)を創造しようと集まる。勿論セブンスローズは沖縄料理店「チャンプルー街」を代表するバンドとして参加する。そこでセブンスローズは、不器用だが「心情あふるる誠実さ」を武器に21世紀への熱い想いを謳い上げることだろう。いや「武器」でなく、喜納昌吉の言う「すべての武器を楽器に!」新しい時代を疾駆するはずである。
               「チャンプルー街」ハネやん

フィノミナン

 「こんにちは! ふみです。『すべての命のチャンプラリズム』の実行委員会に参加しています。国立市谷保の、たべ・のみ・スペース「かけこみ亭」から来ています。

 私が花&フィノミナンとはじめてであったのは、おととし(1998年)の夏です。多摩川の河原でひらかれた2回目の「河原で熱くサンタモニッカ2」というお祭りでした。お祭りのスタッフで、その場所(河原!)に住んでいた花(このバンドのボーカルがくんです。男性です)と一緒にスタッフをやっていたメンバー達・・・若者達の熱〜い想いのつまった祭りのメインステージのラストが花&フィノミナンでした。

 その時のは私にとって日本のボブ・マーリィでした。そのうたは、光り輝く明日にむけてのメッセージでした。音楽の持つ力を感じました。

 は今も河原に住んでいます。時々、立川の駅でうたっています。犬の”じみへん”と一緒に、酔っぱらいのおじさんや仕事帰りのお姉さん、いろんな人が花のうたを聞いていきます。

 バンドのまとめ役のベースのアクさんは、ハンディキャップの運転手さん、アクさんのパートナーでギターのカオルさんは援助為センターの介助の仕事をしています。この二人はずーっとバンドをしていて、一時やめていたものの、に出会って、また、バンドをやろうって思ったそうです。そしてドラムの梵(ぼん)とそのパートナーでジャンベのOLみっちゃん、サックスの山ちゃんも介助の仕事をしています。

 この6人に加えて、時々、ピアノのたくじと河原に住んでいるさっちゃんが太鼓で参加します。

 花&フィノミナンに出会ってから、もうすぐ2年、いっしょにいろんなお祭りに行きました。バンドの行く所、いつのまにか仲間が集まってきて、いつもにぎやかです。佐渡のドンデン山、佐賀の虹のみさき、宮崎の海、岡山のぐるぐる祭、地元ではサンタモニッカの他、国立の公園で緑日ライブ、東大和、障害者移送サービス(スペース)主催のコンサートなどにも出演しました。

 いつもは「かけこみ亭」でマスターのぼけまるさんといっしょに飲んだり、歌ったり、ライブしたりしています。

 知念良吉さんのつながりで、「チャンプルー街」の人達とも出会えてうれしく思っています。このイベント「すべての命のチャンプラリズム」でいろんな人に出会えるのも楽しみです。そしていっぱいの人に花&フィノミナンを聞いてもらいたいです。よろしくお願いします。それから・・・「かけこみ亭」にも遊びに来て下さい!

かけこみ亭 ふみ
ヨッシーアリちゃんユッ君
(通称・ヨッシーと沖縄料理店チャンプルーズ )
10、20、30代のロック魂の激突
沖縄料理店「チャンプルー」の代表
 「総理へ」(作詞・作曲 ヨッシー)
♪ 人にやさしい政治だって、何度も何度も言ったじゃありませんか、総理。
土地強制収用なんて人にやさしくないんと違いますか、総理。
米軍基地がどうしても必要ならば、その訳を僕にでもわかるように、
説明してください、納得させてください、総理、あなたの口から。
狭い沖縄に75%もの基地を押しつけて平和な国だとほざいている
日本人なんて、最低ですよ、くそったれ、俺もその一人、
不公平きわまりない、この状況をなんとかしてください、総理・・・
只今、
ヨッシーと沖縄料理店チャンプルーズ
のメンバーが増殖中で何人増えるか不明です。
カーミーズ
カーミーズ:沖縄の方言で”亀”のこと
亀谷啓子 沖縄県沖縄市出身
亀谷長一郎   浦添市出身
東村山市在住
1995年9月4日、米兵による少女暴行事件がきっかけで
基地の無い平和な沖縄を目指し、もっと沖縄を知らせようと
三線(さんしん)とギターでうたい始めたのが4年前です。
へたな歌でも目を輝かせて聞いてくれる人達に出会い、
たくさんのやさしさと元気をもらって、今ではその感動がやみつき状態です。
沖縄の心「命どぅ宝」(命こそかけがえのない宝)をみんなと一緒にうたっていきたい。
チャンプルー街で人間のあたたかさもひしひしと感じています。

亀谷さんご夫妻が「チャンプルー」に来たのは去年の9月。ようこちゃんとハセぴーが南米・チリの世界精神保健連盟の世界大会に出発した夜のことだった。彼らがいないので、当分静かな営業になるなと思っていた日、沖縄料理店のガイドブックを見て亀谷さんたちがひょっこりと来た。でも入ってきた時から気になっていて、初めてのお客さんなのに唄ってもらうことにした。

 彼らが唄いはじめた瞬間、店内は「カーミーズ・ワールド」(沖縄の心「命どぅ宝」 )と化した。あー、本物の歌手がいるなというが第一印象だった。歌だけでなく、ライブの後にご夫妻と話して、熱い心を持った人たちだということを知らされた。

 その月の終わりに、中野で沖縄のコンサート「あしびなー祭」があった。知念良吉さんと共にカーミーズも出演していた。演奏が終わった後でゴザの上でオリオリビールを飲みながら、沖縄・軍隊・平和について熱く語りあったことが忘れられない。

 僕と同じ50代。だが、心は青年のように熱く燃えている。平和を訴えつづけるカーミーズの「熱」に感染・感動してください。

ユニーク・バンド 
(ユニークバンドのニラさん)

ユニークバンド精神科の作業所に通うメンバー職員がやっているバンドです。

但しそういうのにありがちな、福祉・教育、学芸会臭さは薬にしたくも見当たりません。うまいのかへたなんかもよく分かりません。良くわかんないエネルギーがあります。音楽の良いところは、やってる間は病気健常者もないところです。

荻窪・グットマンなどライヴもやっているのでよかったら見にきてください。


李政美(い・ぢょんみ)
ギター・矢野敏広
(2.11「チャンプルー」ライブ yama@石川さん撮影)

 知念さんからチラシのメッセージを依頼されて、最初に書いたものは字数が多くてボツになり、結局「チャンプルーもピビンパも大好き!」という短いメッセージを載せてもらいました。
 なんじゃこりゃ、いぢょんみはただの喰いしんぼか、と思われた方も多いかと思いますが、私が言いたかったのは、ひとつひとつの持ち味が生かされてこそ全体の調和が生まれる。どれが一番でもなく、どれひとつ欠けてもおいしくない。チャンプルーもピビンパも大好き!ということだったんですけど・・・。

 「かたいメッセージが多かったから、ちょんみさんのは軽くていい」と知念さんからお褒め(?)のお言葉をいただきました。やっぱ軽いかなあ。

 私が生まれ育った場所は東京の下町・葛飾で、沖縄、部落、朝鮮、キーさん、おかま、アル中、なんでもありのバタ屋の長屋でした。

物心ついた頃の私は、その場所から逃れたくて逃れたくて仕方がなかった。でも、そこが私のふるさとなんだと、そこが私の生きて行く場所なんだと、今は思っています。

 そう思えるようになって、生きることがこんなにも楽になった。

「みんなちがってみんないい」っていうのは、言う人によってはなんとも安易に聞こえる言葉かもしれない。社会から排除された人の痛みを、一緒に痛む想像力がなければ。そんなしなやかな想像力、感性を持った人がもっともっと増えたら、世の中もっと明るくなるのになあ。

 で、私はといえば、おばあちゃんになるまでうたい続けたいと思うのです。希望の種をまきながら。

佐々木 恵

 三絃(サンシン)を持って沖縄を旅してたら、元気なおじい(おじいさん)、おばあ(おばあさん)達に出会った。辺野古(へのこ)の「命を守る会」の団結小屋で。「子や孫に二度と戦争を味あわせたくない」「辺野古の海は、神様がいらっしゃって私たちを守ってくださってるんだよ」

 そんなおじい、おばあ達の思いを無視して、県議会では普天間基地の県内移設、沖縄県北部の振興策付きの基地移設受け入れ表明を名護市は決めてしまう。辺野古に来て、地元の人達への説明もされないままに次々と。その度に、おじい、おばあ達は市役所前につめよって訴えている。

 「命をはぐくむ海を、戦争のための基地にしてはならない」と。

 内地にもどってある人に言われた。「沖縄の人が今の県知事や市長を選んだんだから、反対と言うのはおかしい」。

 くやしくて涙が止まらなかった。おじい、おばあ達がどんな思いで戦ってるか。小さい一部の、少数の人でも、それが正しければ正しいと、私は思う。沖縄に基地を押し付けて、それは沖縄だけの問題だとしか考えない。おじい、おばあ達の思いをふみつけてはならない、と私は思う。

おーまきちまき 
のむらあき

うちは,神戸にすんでるうたうたいです。あるときは,有機野菜を売ってる八百屋のうりこをしています。いっしょにやってるギター弾きのおじさんはFMわいわいという、ちいさなコミュニティー放送局ではたらいてます。(わいわいのある、神戸・長田は、まさに、ちゃんぷるー、八言語で放送を続けています)

震災前には、それぞれ別のバンドでやってましたが、いっしょにやろう、と約束したとたん、地震にあいました。うちは被害がかるかったので、いまもしんどい思いしてる人たちの気持ちまでは、代弁できません。けど、ゆりうごかされて、突然みんなからだひとつになって、いろんなおもいがして、あるいてあるいて、地震のおかげでもらったものも、たくさんあるとおもう。うちの兄ちゃんはながいことひきこもり生活をしてるんやけど、地震直後は外に出やすかったそうです。

今、えらいひとたちは、神戸に空港を作ろうとしています。えらい人達は,そんなことばっかりにいっしょうけんめいなので、きもちにずれをかんじてるひとはおおいとおもう。環境にも財政的にも安全的にも疑問のこえをきくほど、なんでそんなにしてまで空港をつくらなあかんのか。???です。 というわけで、4月20日からはじまる市長リコール、代表世話人をひきうけてしまいました。お金がなくてあっぷあっぷ状態です。

もし,カンパしてやろうというひとがいたら、

郵便振替00960−8−152474市長リコール・神戸の会へ。 お問い合わせは,078−371−8201、fAx078−367−3711です。

まだかいてもいいようなので、うちにとっては恩人のはなしをかきます。学生のときに、障害者解放運動にであって、いまにいたるんやけど、いろんなごたごたや、自分の弱さから、しんどくなって、もう離れてしまいたい、とおもったことがありました。そんなころ、すくってもらったのは,Hくんという、とんでもなくなんにもできない、いるだけでみんなたいへん、というひとでした。うちは、キャンプ実行委員というのをしてて、Hくんはじめ、すぐどっかいってしまう人や,お店で暴れる人やら、いろいろみんながいて、ああおもしろい、とおもえたのは、このときでした。Hくんはなんにもいわないけど、かかわるひとの価値観とかなんとか、まるごとひっくりかえしてしまう。あたりまえに,彼が存在してる、よのなかまるごとそうなったら、どんなにかすてきだろうと、おもうのです。

なんだかまとまらん文章で、ごめんなさい!
どうぞ、よろしくおねがいします。

おーまきちまき
福島泰樹(絶叫歌人)

 樽見、君の肩に霜ふれ眠らざる 視界はるけく火群(ほむら)ゆらぐを

  この歌に始まる「バリケード・1966年2月」。早大闘争を唄った学生歌人としてデビューする。バリケードの中でぱっと浮かんだ歌をこう・・・・

 書けっこないです。そんな時、歌なんか出てこない。バリケードをはずれた時にたぎってくるわけです。大学が機動隊に封鎖されて、近くの喫茶店に救援対策本部をつくって、そこへ毎日出入りしている。今でも覚えていますけど、喫茶店の2階で、下には機動隊が待機している。冬の雨がガラス窓にたまってふっと流れてきた。その時に「くやし涙のごときひとすじ」っていうフレーズが浮かんだんです。そしたら一気に歌があふれて。

ガラス窓に驟雨(あめ)はあがりていたけれども口惜しなみだのごとき一条(ひとすじ)

 第一歌集のあとがきに書きました、短歌は「呼びかけ語りかけ」の詩型であると。その思いは今も変わらない。あの闘争がなければ呼びかける必要はなかった。闘争がなかったら、連帯を求める詩型として短歌をとらえはしなかった。歌をつくり続けていたとしても、もっと自分の美意識に傾斜したものをつくっていたでしょうね。それと、短歌絶叫コンサートなんて思いもしなかった。肉声による直接伝達の詩型、それが短歌なんです。

◆バリケードの中で福島さんの歌集の海賊版が読まれた。時代も人も、あのころから、ものすご変わってきてしまった。

 人間は何も変わりようが無いと思う。もちろん時代や社会に限定されて自分の生き様ってあるんですけど。だけど、自分自身の限界状況は変わっていない。死んでいくんだから、みんな生まれて・・・。だから、生きようとする強い意志だとか、逆境のなかから立ち上がっていく勇気だとか。真実だとか、信念だとか、社会だとか、友愛だとか、熱い涙だとか。そんなものがね、本当に今の青年たちのなかからなくなってしまったのだろうか。僕はそう思いたくない。
 さっき口惜しみって言いましたけど、僕は自分の肉声を通して口惜しみの追体験をしているんです。死んでいった人たちのとん挫した志っていうかね。みんな挫折して死んでいくんです。だから死者を唄う事は彼らの志を受け継いでいくことだし、彼らの思いを現在形で伝えることだと思うんですよ。それが短歌絶叫コンサートを続けていく僕の思いなんです。

敗北の涙ちぎれて然れども凛々しき旗をはためかさんよ

福島 泰樹(ふくしま・やすき)
  1943年、東京市下谷区入谷(現在の台東区下谷)の寺に生まれる
SLOW DANCE 

私たちは、今回のイベントのため結成した、今回限りのユニットです。
ただ、ただ、音を楽しみ、気持ち良く唄いたい・・・。
・・・私たちの願いはそれ以上でも以下でもありません。

当初、ギター2本にボーカル濱崎直子を迎え、3人で演奏をする予定でしたが、諸事情により、
ギター1本とボーカルの2人というシンプルな形となりました。演奏に参加できなくなったギターの竹内(兄)は当日背中をまるめて会場をウロついておりますので、みんなでなぐりに行きましょう。

きっと竹内(弟)は笑ってギターを弾くことと思います。

 ”SLOW DANCE”とは、竹内(兄)の頭にポッとうかんだ単語です。
何の意味もありません。そんな気分だったんでしょうね、その時。
では、寸だギターの音色と風のような唄声を聞いて下さい。 

 竹内(兄)
エバッチキーサン
推定有罪
おまえらは、有罪や
はなっから、有罪や
   医師資格持ってるおまえら
    弁護士資格持つてるおまえら
       おまえら、なんぼ、金かせいでんねん
          わしらの、年金やら生活保護、なんぼやねん
エエうちに住んで
エエもん喰ろうて
娘やら息子やら大学入れて
それで、改革派だってか
ナメさらすなよ
わしらキチガイをナメさらすなよ
若いころさんざん学習したんちゃうかんいな
下部構造が上部構造を決定する?
ほんまかどうか知りようもないが
少なくとも
おまえらのそのセーカツが
今のオマエらのそのヘンシツを
生み出したんだろうさ
年間八百万も一千万も
年間二千万も二千五百万も貰ろてからに
そんなセーカツ10年以上も続け取ったら
『精神病院解体』『反精神医学』なんて
ドブに捨てちまうワナ

いっそ自分の年棒全部棒に振ってみいよ
自らの精神病院を解体してみいよ
逆に精神病院が地域の中に拡散しとるがな

おまえらは、有罪や
はなっから、有罪や
一度十メートル四方の部屋に
30人詰め込められて
歯ブラシ10本と
タオル三本で暮らしてみいや
そのうえ保護衣を着せられて
拘束帯でグルグル巻きにされて
鉄格子に括りつけられてみいや

それでも、先生先生と持ち上げられて
良心派やとでも、改革派やとでも
持ち上げられてへんかったら
ほんまは気分悪うて悪うて
しゃあないんちゃうかいや

おまえらは、有罪や
はなっから、有罪や
医師資格持ってるおまえら
弁護士資格持つてるおまえら
  おまえらは、有罪や

わしにとってはな
わしの前で無罪を証明せんかぎり
おまえらは医師弁護士ちゅうだけで
もう有罪や
推定有罪ちゅうやつや

わしの前で
200万の精神病者の前で 無罪を証明してみいよ

おまえら
推定有罪のやつら
「バクチク本・キーサン革命」江端一起

知念良吉とパラダイスドンドン

(2.11「チャンプルー」ライブ yama@石川さん撮影)
「命のチャンプリズム」によせて

 歌うこと、旅をすること、CDを制作すること、イベントに関わること、かわいい人と熱い夜をすごすこと、生活すること。それはみんなつながっていて、生きることに他ならない。あなたと僕はこの腐った世の中で、何を求め、何を捨て、どんな風に生きていくんだろう。

 ♪ 心の振り子
 誰もいない 小さな公園
忘れられた絵本のよう
 ベンチに落ちた 誰かの夢の影
はしゃぎすぎた夏は夕焼けを見ている
心の振り子 ブランコのように
昨日と明日をユラユラ揺れているよ
誰も君を高められない
争い 悲しみ わずかな楽園
僕たちの心が描いた世界さ
花はただ咲いて 名前は飾らない
種を運ぶ鳥に 遊ぶ子供の歌
夜を巡る星座のように
僕たちは心の海を旅行くのさ
砂浜に残したいつかの名前が消えてゆくよ
心の振り子 真中で灯(とも)り
僕と君はそのままで輝く命さ
君の灯が あるがままに照らしてゆく
「青空の生まれるところ」NOTE

1994年に発表したCDアルバム「オキナワンボーイの憂鬱」。その中に収録した『何処へ行くオキナワンボーイ」という歌の自問が、今回のCDアルバム制作のエネルギーです。

唐ぬ世、アメリカ世、大和世と、それぞれの時代の光と影がチャンプルーになつたオキナワという背景は、僕という現象を見つめる旅の入口であり、扉でした。

1年の半分を歌の旅の中で暮らします。その旅の中で染み出る心の汗を、母親のようにふきとってくれるのは、モクマオウの木陰や潮風、娘の笑顔、そして少年の腕のようなイタジイの森であったりします。

歌うことは、僕にとって、自分からの充実した逃避のひとときであり、それを見つめる心の運動です。僕たちは真実を求める振りをしながら、その回りをウロウロし、世界の惨状を嘆くことはすれ、その原因である自分の心のエゴの有様・思惑を見つめることはなかなかしません。

本当のことは自分に求めるものと理解しましょう。さて、どこまで深く降りられるでしようか。

首筋を汗が流れ、風が渡る音がして、イタジイの白い枝と枝の間から・・・8月の青い空・・・。

            知念 良吉


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