オープンスペース街・日誌

2000年4月 A
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4/30
ジン君の沖縄闘魂記(4/28-4/29)

 4/28
 まよなかしんやさんに連絡を取る。今日、女性総合センターというところで「新沖縄平和祈念資料館を考えるシンポジウム」というのがあるというので行ってみた。何の予備知識もなく行ったので話が中々つかめなかったが、すごくキレイで立派なものが(旧資料館と比較して)できてはいるが、あまり今のところ沖縄県民、特に戦争体験者の人にとつては評判が良くないようだ。

 とてもキレイに作られてソフィスケートされすぎ及び展示物が少ないというのが、その理由のようだ。当時の悲惨さが伝わりにくいというのである。とはいえ全国の平和資料館と比べると、こういった平和運動につながるものが他府県ではかなりやりづらくなつているそうである。

 いわゆる「右翼」が不況のせいか台頭していて、それに対してジャマをするという。僕はすぐに「石原都知事」のことを思い出した。危険な時代がすぐ目の前にあると感じた。僕は福祉を受けているので危機感は普通の一般人よりあるので気持ちがあせった。

 沖縄は、全国でも一番平和運動が盛んなようだし、来て良かったと思った。

 4/29
今日は「コバルト荘」の照屋さんの長男に、島の南部の方をめぐってもらうことになった。わずか2千円で半日かけて、ひめゆりの塔、旧海軍司令部壕に連れていってもらった。

 旧海軍司令部壕は、ガマのようになっていて、軍のアジトのようになっている。手榴弾で集団自決を行った部屋などは、コンクリートで固められている壁にたくさんの傷跡を残していた。民間人がいたガマとは違うのだが勉強になった。

 その他、キャン岬という最南端の岬や、どこかのビーチにいったりと沖縄の海を見る事ができた。砂浜で息子さんとキャッチボールをして楽しんだ。

 夜は、コバルト荘が満室のため、紹介してもらって丸幸という宿に泊った。一泊2500円のところを2000円に値切り、しばらくゴールデンウィークの間は那覇にいる予定だ。それからまた名護の方で過ごそうかと計画している。


4/29
4.28 命どぅ宝・平和世コンサート

 昨日は「街」は早く閉店し、「チャンプルー」は休業して、「6.3 すべての命のチャンプリズム・コンサート」と同じ会場となる上野水上音楽堂へ行ってきました。

 第10回目となる「命どぅ宝・平和世コンサート」、「街」はほとんど参加して来ましたが、昨日の「街」からの参加が一番多かったみたいです。

 午後4時半、第1陣が12名で出発。6時前に到着すると、元治が元ほっとすぺーす練馬の所長だったMさんと池の辺で酒宴の最中。しんまつのモロさんもいました。横浜の中島さんは一人離れて本を読んでました。6時の開場までの間、並んでいる人たちに「すべての命のチャンプリズム・コンサート」のビラをまきました。

 6時開場。いつもの正面最前列の席は取られてしまったので、その横の1ブロックを「街」で独占。実行委員の「無所属・加藤さん」、こどく館・元木さん、職場から直行したヨッシーが続々と登場。結局、「街」関係からは20人の参加でした。クラブハウス・目黒のOさん、目黒のMさんも来ました。命どぅ宝ネットワークのおばあちゃん・Sさんも一緒に座って、ハネやんが作ったお弁当をパクつきました。

 命どぅ宝ネットワークの太田さんが開会の挨拶。最初は仲本光正とクイチャーパラダイス。「チャンプルー」でもお馴染みの垣花暁子さんが美しい歌声を聴かせてくれたり、仲本さんの島歌が心に響きました。ミヤちゃんは1曲目から踊り出していました。

 次は大工哲弘&ツンダラーズ。「インターナショナル」からスタート。Sばあちゃん曰く「日本共産党の唄うインターと違っていていいわね」。「標準語で唄わされるインターと違って、大工さんのジンタ・インターは沖縄風だからいいね。皆、地域色を出してインターを唄えばいいのに」とハネやん。

 「沖縄を返せ」改め「沖縄、輝け」。次々と大工さんは唄いまくったので、ついに「街」軍団は、則子さんを先頭に舞台に上がって踊りまくりました。ハネやんはいつものように泡盛の4合ビン片手に踊ってました。アリちゃんは沖縄仕込みのカチャーシーを披露。

 李ジョンミさん&ヒゲゴリラさん、寿の宮城さん&なびぃ、多くの人たちと再会できたし、5月沖縄で皆と合流する話も決まったし、「すべての命のチャンプリズム・コンサート」の下見を兼ねた楽しいコンサートになりました。


4/28
ジン君・沖縄闘魂記(4/27)

 「ジン君の闘魂記は、ファックスで郵送されてきます。ジン君を応援するメール・言葉などをお送り下さい。

 4/27
 これからゴールデンウィークに入り、「海と風の宿」も板の間で雑魚寝することになるという。眠剤でもなかなか寝れない僕には、少しキツイなと思い、便利のいい那覇の「コバルト荘」へ向かった。

 Mさんに那覇に行く用事があったら連れていつてくれると言われていたので送ってもらうことにした。名護から那覇まで3時間ほどだが、Mさんが所々、運転中に説明してくれるのは、基地のことか、基地が返還されて町になったなどという話ばかりで、沖縄は戦争のための道具にされているなぁ、とつくづく実感する。

 逆に言うと、本土にいると中々僕も「政治」に対して鈍感だが、ここ沖縄では、政治というものを無視できない所だと思った。ここで感じているものを、本土でも「感じて」いたい。感じなければ、沖縄と精神障害者の抱えている問題はリンクしてこない。我々キーサンにとっても、政治は無視できないものなのだ。

 夕食に、ゴーヤーチャンプルーを国際通りにある店で食べた。ものすごい量で、とても食べきれなかった。残念!


4/27
ジン君・沖縄闘魂記(4/24-4/26)

 「街」のみなさん、心配かけてすいません。今朝は元気よく起きれたので、簡単にこれまでのことを書きます。

 4/24
 コバルト荘で、Mさんという人と出会った。彼は基地反対派でホームページでそういう問題を取り上げている人です。那覇の予備校で週3日だけ先生をしながら、いろろな運動に参加したりしているそうです。ちなみに家は名護市です。

 ホームページでハワイ4世のウチナンチューと出会い一週間ほどハワイへ行ってきたそうです。ハワイも、日本の沖縄と似た扱いをうけているそうで、先住民のポリネシア人などが基地に対して反対しているそうです。先住民のエリアも基地にされたりしているので、沖縄と同じ問題を抱えています。改めて世界中が基地の問題を抱えていることを実感しました。

 4/25
 名護にMさんと行った。「海と風の宿」に連れて行ってもらい、その後で二見以北十区の会というジュゴンや基地のことを問題にして活動をしている所に行った。

 代表の東恩納さんを紹介してもらい名護の事を教えてもらいました。彼は土木の仕事をしていたが、基地建設は大きな仕事なので、他の土木関係の人たちは、基地賛成派で、彼は反対を貫いていたので「クビ」にされたそうです。

 この問題で家族間の結びつきの強い沖縄では、意見の違いで(産業が潤うので賛成する人がほとんどらしい)難しい状況になつたりしていて、名護市民は、賛成・反対のはざまで辛い思いをしています。名護では、へリ基地建設のために、市民同士が2つに割れてしまっていて、みんなイヤな思いをしています。環境や軍備の問題だけでなく、基地を建設することで、民衆が苦しい思いをするという事を知りました。

 4/26
 午前11時位から夕方まで、十区の会で宛名書きなどの雑用をしました。途中、妄想がひどく対人恐怖などでパニックになった。苦しかった。

 東恩納さんに辺野古に連れて行ってもらう。建設予定地はポールのようなもので仕切られていて、「イヤーな」感じを受けた。

 ジュゴンの食べる草が砂浜に打ち上げられていて説明してもらった。その後で、辺野古にすんでいる反対派のおじいの所へ連れて行ってもらつた。65才という若くない歳なのに、座り込みとかをするそうで、凄いと思った。

 夜は、泡盛を宿で飲んで、なんとか鬱と闘った。薬より、酒の方が効くようだ。それでも調子が悪かったので、早く寝た。


4/25
ジン君・無事、沖縄着

 昨夜、「チャンプルー」が休みなので、「ハウス街」で皆でお好み焼きを食べていると、ジン君から連絡が入りました。「コバルト荘」の女将の照屋さんと一緒に国際通り近くの公設市場に行って来たようです。アリちゃんとは、まだ連絡が取れてないようで、少し心配そうでした。

 アリちゃんは、ギター・本・集会のパンフなどを東京に郵送してきて、すでに帰京体制に入っています。27日に、東京に戻ってきまーす。

 「チャンプルー」の体制
 アリちゃんが沖縄に行ってる間に、「チャンプルー」の体制が随分変わりました。昼間の「チャンプルー」には、ずっとウエイトレスをしているユカリさんの他に、キーコさんが入り、そこに、イチローさん、そして今週から、「街」のオリジナル・メンバーで復帰したミッちゃんが皿洗いとして入っています。アリちゃんが「チャンプルー」に復帰したら、厨房は4人になってしまいます。どうなってしまうんでしょう?!


4/24
ジン君・沖縄派遣壮行ライブ

 昨日の「チャンプルー」のサンデー夕食会は、ジン君の壮行会ライブをやりました。

 最初に、ヨッシーが数曲、沖縄に行くジン君に送るライブ。その後でジン君のライブの開始。沖縄に賭けるジン君の熱い想いがビシビシと伝わってくるライブでした。最後に、沖縄派遣隊の先輩として、ユッ君も3曲唄いました。

 ジン君は24日の朝、沖縄に出発しました。今日は那覇の「コバルト荘」に宿泊してアリちゃんと合流します。アリちゃんは27日まで、名護の「海と風の宿」に滞在して東京に戻ってきます。

 翌28日は、命どぅ宝ネットワーク主催の「命どぅ宝・平和世コンサート」(上野・水上音楽堂)に「街」&「チャンプルー」は店を休んで10数名で参加します。29日は、社会臨床学会へはセブンスローズ、知念良吉さん、沖縄料理店「チャンプルー」ズが、神奈川の反戦講座にはヨッシーが参加して、6.3コンサートと沖縄の闘いへの決起を訴えてきます。

 5月12日、東京「病者」・地域Hotライン、そしてアリちゃん・ようこちゃん・ヨッシーは、仙台に行って「精神神経学会」福島章・山上皓の保安処分策動粉砕の闘いを、全国の地を這う患者会と共に闘ってきます。 

 5月14日〜16日、「街」&実行委員会の有志20数名で沖縄に行って、沖縄の闘う人たちとの交流会や集会・デモに参加します。悪性腫瘍との生死を賭けた闘いを続けている則子さんも「現地で倒れる」覚悟で行きます。そうした則子さんの闘い、アリちゃん、ジン君の沖縄派遣に触れ、「街」の一人ひとりが、今の日本の現状を何が何でも変えよう、その闘いの中で自分自身も変わって行こうと起ちあがっています。ジン君とは沖縄現地で合流する予定です。

 6.3 すべての命のチャンプリズム・コンサート・・・実行委員会結成から半年、とりわけ4〜5月の闘いをバネにして大成功させたいと思います。すでに「街」からは100人を超える参加者が決定しています。

 そして何よりも、6・3コンサートを打ち抜いた総力をあげて7月、再び沖縄に行って、沖縄サミットを民衆の力でつぶす闘いに参加します。

 沖縄派遣隊の闘いを支える、カンパを宜しくお願いします。


4/23
みなさん、御元気ですか???/えばっち

あわぅおーーーーーんんんんん!!!!!
ありぃ、沖縄の海の貝ありがとーーーう!!!!
棚に飾るんやぁーーー

ありぃ、仁君、ヨッシー、ほんま、凄いなぁーー!
沖縄かぁーーーーわおぅ!!!

今度会う時は、
バクチクの本と
バクチクの人間と(つまりキーサン)
ほんまに鳴るバクチクとで
盛り上がろうや。

楽しみや、バぁーーーーーんんんんん!!!
バンバン゛バァーーん!!!!
わぅぉーーーーーんんんんん!!!

            えばっちより

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前進友の会・やすらぎの里


ヨッシー/第3回・反戦講座に出演
 第3回 反戦講座 テーマ:神奈川-沖縄・基地撤去のために
 1945年4月、およそ3ヶ月に及んだ沖縄戦は「鉄の暴風」といわれるほど激しく、日本側だけでも24万人もの尊い命を奪われました。戦争は、全ての命を一瞬にして奪ってしまいます。

 広大な米軍基地を抱え、絶えず戦争と向き合いながら生活している沖縄に新基地建設を許してはいけないし、もうこれ以上自然を取り上げてはならないのです。人殺しをするための基地は、どこにあってもならないのです。

 今、私たちに出来ることを共に考えていきたいと思います。

 4月29日(土)午後6時〜 *前、30分にヨッシーライブ

 神奈川県民センター・711号室(横浜駅西口・三越裏 徒歩5分)

 主催:とめよう戦争への道! 百万人署名運動・神奈川県連絡会


4/22
アリちゃんの沖縄・奮闘記(4/18-4/21)

4月18日(火)16日目
 石川真生(まお)さんが時間を作ってくれ、一緒に昼食。真生さんからは基地の事にこだわらず、いろんな話が聞けて楽しかった。真生さんは人間に興味があって写真を撮り続けてるんだなぁと思う。いろいろアドバイスしてくれた。

「海と風の宿に行きたいなら、行ったらいいさ〜」。次の行動に迷っていた僕はその言葉を聞いてすぐにバイクに乗った。しかし途中で一日で名護まで行くのは無理と気付き、ぬーがやーで一泊する事に。知花さんの奥さんに部屋を案内してもらい、すぐに金城実さんの事を聞き、場所を教えてもらった。でも道に迷って行けなかった。チビチリガマに行って、よくよく見てみると この像をつくった人も金城実さんだった。前来た時は気付かなかった。この像は一度壊されてまた作り直した像だ。今日は僕以外誰も泊まっていなかったので、夜はさびしく一人で読書して寝た。

4月19日(水)17日目
 ぬーがやーを後にし、金城さんのアトリエへ。外に無造作にたくさんの彫刻が置いてあったので 勝手に見ていった。人の苦しみやおそろしさが心に迫ってくる像だ。そのまま バイクで名護まで。具志堅さんの「虹の橋作業所」を探すが見つからず、くたくたで「海と風の宿」へ。ちょうど田中さんの個展をやっていたので、みんなで見に行く。田中さんは字遊人で詞を筆でかく。心にぐっとくる言葉ばかりだ。帰って早く寝る。

4月20日(木)18日目
 昼、成田さんにくっついて出かける。海のきれいな所。きれいな海が一望できる丘に行って、ひなたぼっこして気持ちいい。途中で成田さんと別れ、まよなかしんやさんのライブが行われる南風原(はえばる)の「やさい畑」へ。原付バイクで4時間余りかけてたどり着いた。へとへと。宿を探すが見つからず、しんやさんにお世話になることに。「やさい畑」は無農薬の素材で料理を出す店。しんやさんの歌いっぷりはさすが!!昨日あった出来事がもう今日歌になってる。伝えたい事があるから堂々と伝えられる。僕は3曲歌った。しんやさんが紹介してくれたり、アンコールしてくれた。みんなあたたかい拍手をくれた。ありがたい。

4月21日(金)19日目
 今日は北九州から新ガイドラインに反対する会の人たちが来て、しんやさんがガイドをする。昼頃、空港に迎えに出かけた。あいにくの雨の中、レンタカーを借り、一同那覇、浦添の基地の現状を見に行く。那覇軍港を見て、落の食堂でまずは最初の沖縄料理。

 展望台に登り、しんやさん手作りのガイド用地図を僕が持ち、しんやさんが説明する。しんやさんは歌を歌うだけじゃなく、ウチナー(沖縄)を見に来た人たちのガイドもやって、なんでもやろうとしてすごいな−と思った。

 米軍は30年以も前から那覇軍港を浦添に移転したいと考えている。しんやさんはわかりやすく「古い、狭い、遠い、浅い、目立つ」と説明してくれた。沖縄の基地は50年経ち基地がみんな古くなっている。みんな新しくしたい。そして、大型空母が寄港するには「狭い」。浦添のキャンプキンザーまで荷物を持っていくには「遠い」。そしてその移動が目立つ。

 空港からまず皆が目にするのは那覇軍港のフェンス。湾岸戦争の時などには戦車でいっぱいになり、道路も物資の搬送で、住民に「戦争が起こっている」とすぐわかる。それが、キャンプキンザーと直結すれば、移動も目立たず、住民に軍隊の様子が分からない。そして、川の河口を利用して作ったこの軍港は土砂の堆積等で底が「浅い」。次の民間の港でありながら、米軍の物資を運んでいるという港へ行った。そこには船の貨物を速く、大量に運べるクレーンがある。それらがある為、米軍は軍港を使わず、民間のその港を利用している。「ガイドライン」を先取りした所。次は、浦添市職員労働組合へ行った。市役所の展望台で職員の人が説明してくれた。

 稲嶺知事は浦添の海を埋め立てて、1兆4000億円かけて新しい港をつくりたい。しかし、普通の国の予算内では作れない。だからSACOの予算で作ってもらって、その中に軍港も作る。しかし、こんな膨大な港を作っても、沖縄に運ばれる荷物自体がない。現在20フィートコンテナで那覇港に来るのは年間6万個。その内、半分以上が米軍のもの。現在那覇港には20〜30万個のコンテナを処理できる能力がある。それなのに年間500万個ものコンテナを処理する港を税金で作ろうとしている。来る荷物も無いのに。(あるとすれば、それは戦争が起きた時の米軍の物資だ)

 浦添の海は生物が住みやすくきれいな海。でもキャンプキンザーが町と海をさえぎり、浦添の子供たちは自分の住んでいる所に海がある事すら知らない。しんやさんはそんな落作るより、このきれいな海を守って、観光客や市民に開放したほうが産業の発展につながると言ってる。

 その後、島田さんのやっているリトアニア料理店「ザンギリス」でパーティー。知花昌一さんも来てた。しんやさんが歌い、僕も歌い、知花さんが三線(さんしん)を披露。島田さんたちと一緒にリトアニアへ行き、三線で琉球文化を披露してきたという三線の名手が最後をしめた。

 昨日の「チャンプルー」
 6/3 すべての命のチャンプリズム・コンサートの実行委員会と目黒区に作業所を作る会「クラブハウス・めぐろ」から6名の見学者があり、交流しました。めぐろの大賀さんは去年の沖縄の病地学会に参加していたとか。

 ヨッシーとジン君のライブ、次に洋平君・ユッ君が加わって「総理へ」「都知事様」の熱演。みんなの息が随分合ってきた気がしました。

 大賀さんは、13日から沖縄に行くそうで、僕たちは5/14-15、現地で会おうということになりました。


4/21
沖縄派遣隊の追加

 アリちゃんは21日、首里のザンギリスで開かれている『北九州&沖縄の平和交流集会』に参加していると思います。まよなかしんやさんが歌うので、アリちゃんも唄うのかな・・・

 アリちゃんは27日に帰ってくる予定です。ジン君(自由広場・元代表)が来週、沖縄に行くので、沖縄派遣支援ライブ(第1回)をしました。「生活保護者としての新しい生き方を目指して沖縄に行く」と語ってました。

 ヨッシーは仕事で忙しい人だけど、12日の精神神経学会(仙台)、14日〜15日(沖縄)、「街」と一緒に行動することを表明しました。


4/20
みなさん、御元気ですか???/えばっち

ありぃーー手紙ありがとーーーう
琉球で凄い出逢いがあって
土産話を楽しみにしてるよーーーー

5月の仙台
6月のチャンプラリズム
と、うまくいくと、
みなさんと逢えますね。
たのしみだなぁーーーーーー

わぅおーーーーーんんんんん!!!!!

            えばっちより

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前進友の会・やすらぎの里


チャンプルーの出来事
 18日、現代思想研究所・所長&哲学者という津元さんが、哲学ライブをやらせて欲しいとやって来ました。とてもユニークな人で、サンデー夕食会でライブをするそうです。

 昼間、東京「病者」・地域Hotラインの臨時ミーティング。ほっとスペース八王子の多田さん、こどく館の元木さん、横浜の中島さん、「街」のようこちゃんが集まって、精神神経学会で配るビラを詰めました。


4/19
アリちゃん 沖縄奮戦記(4/16-4/18)

4/16(日)
 今日は2時からまよなかしんやさんに聞いた「<民衆の安全保障>について考える集い」(正式名称は「4・16基地移設・沖縄戦史の改(かい)ざん問題を通してサミットと<民衆の安全保障>について考える集い)に参加するため沖縄大学に向かった。そこで東京から来ているという2人に会った

 今回、ツアーで20名程で来ていると言う。会場にはしんやさんがいた。隣に座る。それぞれのテーマで一人ずつ前に出て話をする。基地移設とサミットとの関係。サミットが、G8というものがそもそもどういうものなのか、アジアの民衆の視点という大きな枠から話されていく。今まで、自身、基地に反対とはどういう事か考えてきたが、そのような広い視点から考えた事がなかった。また、平和資料館についての問題も取り上げられ、特に今日、この集いに来る前、解説の文章・英語の部分の米軍を批判する部分が抜けている事に気付いた人の報告があった。この指摘はすぐ次の日の沖縄タイムスの記事になった。こっちの新聞はまさにnewsだ。

 その後しんやさんのお姉さんがカラオケ大会に出るというので見に行った。歌い終わった後に花束を渡す役目をさせてもらった。食事をごちそうになった上、一泊させてもらった。夜、しんやさんにいろんな話をきかせてもらった。ありがとうございました。

<しんやさんに教えてもらった事>
 10フィート運動・・・広島(長崎?)の人たちが戦争の悲惨さを人々に伝える為、アメリカに保管されている原爆の映像フィルムを1人10フィート、1,000円ずつ出して買って、映画をつくろうという運動。
 1フィート運動・・・沖縄の人たち(しんやさん達)が10フィート運動を見習い、では僕たちは1フィート、一人たった100円ずつ出して沖縄戦の悲惨さを訴える映画をつくろうじゃないかという運動。

 一坪反戦地主・・・基地内に土地を持つ者はたくさんいるがほとんどは米軍の使用を認め、土地使用料をもらっている。使用を拒否するものは100名程度。その反戦地主の人から一坪、1万円(だったかな?)で土地を買い、現在では3000名ほどに反戦地主が増えた。しかし、2000.3.30の県議会で「県の外部団体などあらゆる県の機関から「一坪反戦地主など」を役員から排除すべき件」という陳情が採決された。県はまさに反戦地主を排除しようとしている。

3月4日・・・三線(さんしん)の日
4月9日・・・フォークの日
3月19日・・・ミュージックの日
その他、毎月15日はジュゴンの日(街頭などでジュゴンを広める活動を毎月しています)

 サミット・・・サミットはもともとオイルショックの時、資源国(中東?)から先進国がどうやって資源を搾取するか・・・というようなことがきっかけで始まった。しんやさんが聞く「ありちゃん、今ガソリン1リットルいくら?・・・そう、じゃ、コンビニで水は1リットルいくらで売ってる?」中東の人達は油が水より安いなんておかしいと言ってる。また、聞く「国連って知ってる?200カ国以上が加盟している。サミットは?たった8カ国。たった8カ国でもの事決めてるなんておかしいじゃない。本当は国連で決めるべき。石油の値段をたった8カ国で決めるなんて、本当は国連は怒るべきだが、国連は物事を決める本来の機能を果たしていない。結局、先進国が裏で手を回して動いている」要するに200カ国を無視して、8カ国で世界の政治をしきる会議の事。これがサミット!

4/18(火)
 前日は酒に刺し身に綺麗な布団に、散々お世話になり、朝飯までごちそうになり、しんやさんの家を出た。少し疲れが出て、コバルト荘に戻り、夕方まで寝た。それから「沖縄から平和を呼びかける4・17集会」へ向かった。

 基調提起から始まり、沖縄戦体験者の話(多分この前ひめゆりの搭で話してたおばさんだと思う)、リアルな戦争体験、そして心からの戦争は二度と嫌だという想い、ベトナム戦争、朝鮮戦争、湾岸戦争、と沖縄が今度は加害者になっている事。沖縄から飛行機が飛ぶ度に人々があの沖縄戦の時のような悲惨な目にあっていることに胸を苦しめる気持ちを語った。また、女性たちで集まり、運動をしている人の話し。明るく楽しくそして組織に縛られない機動力で運動している様子が語られ、会場が明るくなった。しんやさんからは「5.15屈辱の『復帰』記念日」の前日にキャンプキンザー包囲デモをするぞーと呼びかけ、会場も盛り上がった。しんやさんには人を引きつけるエネルギーがある。そして最後に「沖縄民衆平和宣言」を読み上げこの宣言が沖縄・日本にとどまらず世界へ向けて「平和の発信」をしていくと結び、集会は終わった。

 WTOに続き、今日のニュースではNGOによるIMFのデモ、「次は沖縄サミットだ}と言っている。この機会に、世界の人々に沖縄の基地のことをアピールするにはサミット期間中、沖縄のどこへ行っても、人々が基地反対を訴える姿を世界中の人々に見せる事だ。7・22「嘉手納(かでな)基地包囲行動」で、人々が手をつなぎ、そのチェーンで嘉手納基地を輪で囲もうという計画。しんやさんがいうには「1972年復帰前、大学生活は毎月どっかで集会に行って、毎月5万、10万人集まる集会がいつもあったよ」。ニュースでも6000人(?)の人々が路上で踊ったり、歌ったり、不当を訴える。表現する事だ。・・・・ここで連載休筆。

動き
4月18日(火)石川真生(まお)さんと会う。 その後、知花昌一さんの民宿、何我舎(ぬーがやー)へ 
4月19日(水)金城実さんの彫刻を見る。名護市辺野古の「海と風の宿」へ
4月20日(木)那覇へUターン(予定)


4/18
SeventhRoseCD 完成・発売中
『一筋に流れる祈り』



2000・4・19 ¥2700(税込)
 収 録 曲
 90年代
 ヒューマン
 陽が射せばいい
 コメツキ・ブギー
 弱き空の下
 エキセントリック・ブルース
 太陽の心
 ユア・カントリー・ソング
 一筋に流れる祈り

ハネやんがCDのライナーを書いてます。

 僕は東京・武蔵関にある「チャンプルー街」という沖縄料理店でシェフをしている。セブンスローズは、ここで3年前から月に数度ライブをやっている。

 「チャンプルー」はいわゆるライブの店ではない。音楽好きの若者が多くを占めるライブ・ハウスと違って、たまたまお客さんとして来た老若男女がオリオンビール・泡盛や沖縄料理を味わいながら、その現場に立ち合わされることになる。当然、食事に来ただけで音楽を聴きたくない人もいる。だから演奏者にとって、とても「シンドイ」場なのだと思う。最初はライブに関心を示さなかった人たちが、ライブが進む中で徐々にミュージシャンの歌世界に引きずり込まれ、音楽を心から楽しむ観客に変化する瞬間を厨房の中で見ているのが、僕のひそかな愉しみである。

 ヴォーカル・稲川さんとの出会いは、彼が僕の店に営業マンとして来ていてバンドをやってるのを知って「唄ってみない?」と言ったのがキッカケだった。それからしばらくして店のメインバンドがライブの最中に、ふらっと稲川さんがやってきた。そしてライブが終わった後で、彼がマイクの前に座った。本当のことを言うと、その時の僕はあまり期待していなかった。でもその期待を見事に裏切ってくれた。メインバンドの後というのに、全然ものおじしない堂々たる唄いっぷりだった。僕は久しぶりに「真直ぐな若者」に出会った気がした。いま考えてみると、そうした唄い方に彼の(セブンスローズの)音楽に対する姿勢がよくあらわれている。

 ライブが終わった後で、よく彼らと討論する。僕は50才を過ぎた熱いオジさんだが、情熱のベーシスト・金沢さん、堅実で爽やかなリードギターの鈴木さん、そしてドッシリと生活に根を張った歌・詞づくりをする稲川さん。熱き心の若者たち。そんな彼らを見ていると思わず嬉しくなってしまう。

 彼らの歌には様々な思い出がある。このアルバムにも収められている「太陽の心」は僕の大好きな曲である。

 「♪どんなに遠く離れていても、空は繋っている。
  どんなに遠く離れていても、あなたは一人じゃない」

 原曲は遠く離れることになった友に捧げる歌として作られた歌だが、この曲は僕たちにとって、店の常連客で高齢と病を抱えながら「精神障害者の解放」を目指して日本全国行脚の旅に出た久良木さんとの連帯の歌となった。しかしその彼も今は、この世にいない。

 セブンスローズの歌は発展する歌である。いつの頃からか、稲川さんがこの曲の歌詞を唄い終わった後で、マイクをお客さんに回すようになった。マイクを受け取った人は、その時の自分の心情を語りその後で「♪あなたは一人じゃない!」というフレーズを唄う。時には延々と1時間もそうした熱い語りが続くことがある。その時「太陽の心」は作り手を離れて、その場に立ち会った一人ひとりの「心の歌」へと発展していく。アルバムでもその臨場感が伝わるが、是非、ライブで聴いてほしい曲である。

 私事ながら今年の1月、「チャンプルー街」の名物女将で僕の連れ合いが入院した。手術前の彼女に向けて、当日居合せた一人一人が彼女の手術の成功を祈って語った。そのビデオは翌日彼女の元に届けられた。一人ひとりの熱い想いが彼女に伝わった。その場面に立ち会えなかった人も、そのビデオを見て涙を流した。セブンスローズの歌は、病と闘う彼女への応援歌となった。

 セブンスローズはライブの最後に「一筋に流れる祈り」を唄う。今の僕の活動の中心は沖縄料理店のシェフだが、インターネットを通じて全国の「心の病」を抱えて生きている人たちのサポート活動をしている。一昨年の末、インターネット情報センター「全国ハートネット」を立ち上げた。たまたま稲川さんが店に来たので、「ハートネットのテーマソングを作ってくれない?」と気軽に言ってしまった。後で聞いた話では七転八倒した末に完成したという。誌上を借りて深く感謝します。この「一筋に流れる祈り」は、セブンスローズの音楽観・社会観・人生観が見事に結実した彼らの代表曲と言ってもいいだろう。今の時代と正面から向き合い、切り結んでいる作品である。

 「音楽で世界を変えることは可能か」 これは1960年代後半から始まったフォークソング運動の中で討論された問題である。僕たちは今年の6月「すべての命のチャンプラリズム」と題するコンサートを企画している。「基地をおしつけられた沖縄、選別された障害者・キーサン、引き裂かれた民族・在日、葬り去られようとしているジュゴン、チャンプルー(ごちゃまぜ)の中から新しい命・地球がつくられようとしている」というサブテーマで。

 沖縄、在日、キーサンをはじめとするミュージシャンが、21世紀(地球史上はじめて、すべての命が大切にされる時代)を創造しようと集まる。勿論セブンスローズは沖縄料理店「チャンプルー街」を代表するバンドとして参加する。そこでセブンスローズは、不器用だが「心情あふるる誠実さ」を武器に21世紀への熱い想いを謳い上げることだろう。いや「武器」でなく、喜納昌吉の言う「すべての武器を楽器に!」新しい時代を疾駆するはずである。
               「チャンプルー街」ハネやん


4/17
「街」からアリちゃんへ

ぺちゃんこ 私がまだ若かった頃、我が家にお嫁さんがやってきた。その人は「主婦の友」という月刊雑誌を愛読していて、それを読んだ私はとても心が動いた。

 沖縄の若いお母さんがいた。彼女にはおなかの中に元気な赤ちゃんがいた。おばあちゃんが首吊り自殺をはかり、命を取り留めたが、たくさんの借金をかかえて、苦しんだあとの行動だと知り、その若いお母さんは、自分の幸せを捨てて、身体を売ってお金を稼ぎ、おばあちゃんの借金を返していく。やがて借金を全額返し終わると、そんな生活から足を洗い、英語教師の資格を取って、子供を立派に育てていく。

 そんな内容の話だったけど、その時私は、こんなことがあってなるものか、沖縄が日本に帰ってくれば、全てが解決すると考え、沖縄を返せという運動があるのを知った。それからもう30年以上の月日が経ったけれど、日本の指導者は未だ全てを解決していない。

 この憤りを何に向けたら良いのか・・・。

 若者よ、老人の願いを伝えに沖縄へ行け、老人にかわって行動し、留守を守る私の心も沖縄の人達に伝えてほしい。

チュー まよなかしんやさんと合流すると、またまた集会、行動、ライブ・・・盛りだくさんですね。ありちゃんからのメール楽しみにしてますよ〜ん!  

洋平 ありちゃんは沖縄空手の選手ですか?(このメッセージに「街」のみんな爆笑)

次郎 僕は沖縄の事情はよく分かりませんが、ありちゃんの前向きな姿勢にはびっくりまたは感激しています。いつもおいしい昼ご飯をハネやんと作っていただいて感謝しています。僕もみなさんと沖縄へ行く予定です。その上でみなさんをお手伝いできたらいいなと思います。とにかく、ありちゃん、がんばってください。  

たけちゃん 沖縄で奮闘しているありちゃんへ/辺野古(へのこ)の海上ヘリポート基地建設と7月に行われようとしている沖縄サミット・・・。辺野古の「海と風の宿」へ行って基地を造らせないように闘っている人達と一緒に抗議するFIGHT、若さ、東恩納(ひがしおんな)さんがみせてくれたジュゴンの危機、ハンセン病の差別など、問題もたくさんあるけどがんばっているありちゃん!今、元小渕首相が脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、新しい森首相も、不法侵入をした外国人にたいして「三国人」といった石原都知事も、何もしようとしない。だからこそ、僕たち「街」のメンバーもありちゃんの後を追って行きます。

 アリちゃんの沖縄・奮戦記(4/14-4/15)
 4/14(金)
 朝、「平和の礎(いしじ)」「ひめゆりの塔」を見たくて照屋さんに雨ガッパを借りバイクで向かうが、途中で雨が強くなり断念。全身ビショビショ。着替えと雨具を探して平和通りをさまよう。昼も過ぎてしまって「ソーシャルハウス・あごら」へ向かう事にした。

 ランチの日替わり定食を食べる。しばらくすると島田さんらしき人がいたので声をかけてみる。やっぱり島田さんだった。「あごら」で働いている人達とテーブルを囲んで少しおしゃべりした。自作のあごらソングを皆で唄ってくれた。島田さんが「街」へメールで「ジーマミ(ピーナッツ)豆腐」の作り方を送ったけど、音沙汰がないから、届いたのか・作ったのかと言ってましたよ。

 雨の中バイクでコバルト荘へ帰る。1日雨の中にいて、。どつと疲れた。帰ると与論・田中さんを待って照屋さんが座っていた。シュワーを浴びてしばらくすると田中さんがやって来た。彼はつきに一度、与論島から那覇に通院にやってくる。丁度いい時に僕はここに来た。「海と風の宿」で一緒だった同じ北海道出身のHさんにも偶然再会、話しがはじまった。

 4/15(土)
 今日は雨が上がって元気を取り戻した。バイクに乗って南部を周る。道路の標識に「旧海軍司令部壕」という文字を見つける。とりあえず行ってみる。地下30Mの階段を降りると通路が続き、所々に部屋がある。今でこそ人が見えるように補強がしてあり見た目にもキレイだが、当時この暗い壕の中で敵からの攻撃におびえ、そんなことを感じる気力もなく疲労しても横になって寝ることも許されず、ひしめき合い立つたまま睡眠をとる状態。人々の心はどんなものだったのだろう。

 小道に入ったり、寄り道しながら南に向かう。途中、数々の碑を示す標識と出会う。南部での激戦の跡が今も残る証拠。米軍兵士の「名誉」の戦死の碑などがあった。そして「ひめゆりの塔」へ着いた。

 完全に観光地になっており、人がごったがえし、観光客目当ての土産物屋、食堂、交通整理をするおじさん。ここに来た何人の人達が、ここの意味を知るのだろうか。

 資料館に入ると、まず沖縄戦で亡くなった学徒隊・少女達の顔写真が整然と壁に並べられ、リアルに飛び込んでくる。そして数々の写真・文章。当時の日本政府がいかにして戦争万歳、天皇万歳の思想を日本人に植え付けていたのかが分かった。歴史的事実を並べるだけで、それを表現するに十分だ。

 壕のモデルの前でおそらく学生だろう若い人達の前で、問うし是を語るおばあさんがいた。彼女は、ひめゆり学徒隊の一人だ。当時の彼女の実体験を生々しく話していく。

「最初、学校を出で、戦地へ向かうまで、こんなにヒドイ所だと想像もしなかった」「最初はふるえながら死体に触っていたが、段々、平然と死体を転がすことができるようになった」

今、XX(判読不明)が立っている所が、まさにそれが行われた所だと言う事。そしてただ悲しんだり、可哀想と思うだけで帰るのではなく、再びこのような戦争が起こらない為に、今日知った事を「教訓」としてほしいことを強調した。その後、平和祈念公園、平和の礎を見て那覇に帰った。

 まよなかしんやさんに電話をすると、「明日、集会がある」と言う事なので僕も行く事にした。その後、食事をしながら話をしようと約束した。とても楽しみだ。


4/16
ファシスト石原弾劾の闘争を呼びかけます/高見闘争
 一「障害者」の立場から
石原都知事の、府中療育センター視察時の、「障害者」と安楽死を結びつける発言以来、あるいは、都の「障害者」予算の削減と言う動きから、石原知事は危険な人物だと思っていました。

石原の自衛隊での発言などの全文を読むと、さらにその思いが強くなりました。

石原は、今の日本のどん詰まり的な危機を、国家主義、民族主義、差別排外主義の方向で突破しようとしているのです。これは、オーストリアのファシストハイダーと同じことを日本でやろうとしていると言うことです。かつてのナチスが「障害者」、ユダヤ人、社会主義者を大量虐殺した論理と同じものがあります。ナチスによる「障害者」虐殺は、「社会の役に立たない、社会のお荷物になっている」「障害者」は生きている価値が無い、という論理のもと10数万人が虐殺されたのでした。またユダヤ人虐殺については言うまでも無く誰でも知っている民族排外主義によるものでした。「ユダヤ人がいるから国が悪くなっているのだ」と言う論理のもと、数百万のユダヤ人が虐殺されました。石原の言っていることは、このユダヤ人虐殺とまったく同じことです。意識的に、ユダヤ人収容所を意味する「ゲットー」という言葉さえ使っています。

このような思想の持ち主である石原はファシストとして断罪されるべきです。明らかに石原はファシズムの思想と手法をもって今の日本の体制的危機の乗り切りを図っています。国家主義をあおり、日本が悪くなっているのは在日外国人のせいだと差別扇動し、社会的弱者=「障害者」は安楽死だと扇動し、在日朝鮮・中国人が戦後社会の中で悪いことをしたから「三国人」と言われたと言い、そういう「三国人」は自衛隊の治安出動で虐殺してもかまわないのだと宣言する。これをファシズムと言わずしてなんと言いましょうか。

オーストリアでは、ファシストハイダー弾劾の30万人デモが闘われました。日本においても、ファシスト石原弾劾の大衆闘争が求められています。

地方在住の私は、まずはホームページ上で、ファシスト石原弾劾の闘争を呼びかけたいと思います。私の意見をお読みいただいて、賛同される方は、私のホームページ、URL http://homepage1.nifty.com/takamitousou/ までご連絡ください。

私のホームページにある掲示板に投稿ください。

石原への抗議先は、東京都知事へのEメールアドレス、governor@metro.tokyo.jp です。

また、TEL03-5321-1111、FAX03-5388-1222、東京都新宿区西新宿2-8-1東京都庁政策報道室都民の声部宛です。

石原は抗議より賛成の意見のほうが多くなったと言う世論操作を行っています。

そんなことを許さない抗議メールをどんどん送ってやりましょう。

ゲン


アリちゃんの沖縄・奮戦記(4/12-4/13)

 4/12(水)
 1日中寝てた。「海と風の宿」の愛犬・トトロの散歩に行った。夜、成田さんに、去年の暮れから今年までのアルバムを見せてもらった。市長(県知事?)の黒塗りの車の前に立ちはだかる成田さんの姿。大勢の前で三線を奏でる師匠。基地反対の想いで集まり、怒る人々。そこには、人間の姿が写っていた。

 4/13(木)
 一度、那覇へ戻ることに決めた。宿で一緒だった、パソコン専門家のKさんが車に乗せてくれた。Kさんは今、「海と風の宿」でインターネットを活用しようという事で大活躍してくれた人だ。

 11時頃「海と風の宿」を出て、途中、恩納村でKさんの泊っていたユースに寄る。ここも様々な人たちが立ち寄り出会う場所だ。その後バスに乗り北谷(ちゃたん)に寄りKさんと回転寿司を食べた。北谷はジャスコなどショツピングセンターが軒を並べ、フリーマーケットが開かれるなど観光客が多そうだ。今日はあいにくの雨で人も少なめ。

 リンケン・バンドが演奏するライブハウス「からはい」などKさんがいろいろ案内してくれた。その後またバスに乗り、Kさんは空港へ、僕はレンタルバイクを借りに途中で別れた。バイクでコバルト荘へ向かう。10日ぶりに照屋さんと再会。お話をする。海勢頭(うみせど)豊さんが演奏するライブハウスなど教えてもらった。

 夜、「チャンプルー」に来た事のある島田さんのリトアニア料理店「ザンギリス」(昼は共同作業所「アゴラ」)へ行ってみる。島田さんは体調を崩して帰宅していた。後で聞くと、この日は、まよなか・しんやさんが来てて、僕の話もしてたという。すれ違いで残念。念願のリトアニア料理を食べた。食べた事のない料理、おいしかった。

 宿の近くまで戻り、写真家の石川真生(まお)さんに電話してみる。真生さんには昨秋「チャンプルー」で「日の丸を視る目」日本の100人の写真を撮ってもらったことがある。

 最初、誰だかわからなかったみたいだが、「あー、練馬の沖縄料理店のニーちゃんかい」思い出してくれて喜ぶ。もしかしたら月曜日に時間が空くかもしれない。

 「海と風の宿」では様々な経験の機会を作って、アチコチ連れていってもらった。沖縄に来て、魅力があるなーと思った人達。基地に怒り行動する地元の人達。おじー・おばー。ハンセン病療養所「愛楽園」の宝善さん。人間としての「誇り」を感じる。

 何でもハイハイ言っちゃって、人に流され生きる自分。自分で、自分の一番嫌いなものの根本は「誇り」の無さ。今の自分には心から基地に反対できるのだろうか。もっと魅力のある人達に出会って、自分を磨きたい。


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