オープンスペース街&心の広場

2000年7月A
7月@ 8月
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7/31(月) エバッチからのメール
いやっほー―――う!!!!
わぅおーーーーーーんんん!!!!!
おかえりぃーーーーーー!!!!!

みんな無事で、
しかも、真っ黒うになって、
大きくなってきたってぇーーー
そりゃあーーーーいいなぁーーーー
みんな元気でよかったあーーーー

友の会は月曜と火曜に夏レクに行ってきまおーーーすぅ!!!
水曜日は御疲れ休みしまーーす。

                
えばっちより

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前進友の会・やすらぎの里
http://www1.plala.or.jp/akahane/zensin@mue.biglobe.ne.jp
http://www2.plala.or.jp/moro/home.html

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ハウス街・沖縄(ジュゴンの家)
8/12 オープン
週刊:街ニュース・第439号(2000年7月28日発行)

 7月の21日から23日まで沖縄でサミットが行われました。「街」からも4名が沖縄へ行って、基地・サミットに反対してきました。サミットの前日は嘉手納基地を包囲する「人間の鎖」に2万7千人の人が集まりました。基地がない世の中を願っての行動です。

 それに対し、サミットとは一体何だったのでしょうか。800億円を越える税金は、9人の首脳のための過剰警備とおもてなしに消えていきました。そのお金でどれだけのことができたでしょう。

 誰も来ないサミット。県民には外出禁止、漁業も農業もできない、観光客も来ない、名護市内は閑散としていて、あげくに巷では「サミット休日」という言葉が生まれる始末。サミット景気はどこへ行った? 結局、潤ったのは本土の企業。

 沖縄では「あ−やっとサミットが終わった。やれやれ」という雰囲気。そして、これから本格的に新基地建設が日米政府によって進められようとしています。

 沖縄サミットが終わっても問題は何も解決していません。むしろ辺野古への「ヘリ基地移転問題」はこれから始まります。

 沖縄サミット反対を闘った私たちは、「新しい基地はいらない、軍隊も安保もいらない、ジュゴンが安心して暮らせる海を守ろう!」という想いを実現するために、新しい基地が作られようとしている沖縄・辺野古に「ハウス街・沖縄」(ジュゴンの家)をオープンすることにしました。

 「街」の人たちや、沖縄サミット反対に行った人たちを中心として、ローテーションを組みながら、ヘリ基地移転をつぶすまで、辺野古での「常駐態勢」を作り上げたいと考えています。そうした活動を通して、沖縄の人たちと共に軍隊も基地もない平和な「人の世」を実現していきたいと考えています。

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「ハウス街・沖縄」は戦争のない平和な世の中を目指すための拠点です!  
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 (格安チケット・宿泊費のお問い合わせ) 
チャンプル−企画 03−3928−0417


チャンプルー LiveInformation

ヨッシー&沖縄料理店・チャンプルーズ水曜〜土曜 午後8時30分〜
日時  曜日     出   演   者
12/?     おおまきちまき(神戸)予定
9/12  火  プーカングァン/在日韓国人・フォーク&ブルース 午後7時〜チャージ1500円
9/6  水  まよなかしんや(沖縄)午後7時〜・チャージ1500円
8/20  日  セブンスローズ 午後7時〜
8/6  日  Mick(ミック)投げ銭ライブ/午後7時頃
8/4  金  知念良吉(沖縄) 午後7時〜チャージ1500円



 

7/30(日)平和の意志を集めて下さい (韓国政府の満月まつり弾圧に対する抗議声明)
 梅香里の住民たちは、夜10時20分に村の放送を通じて「住民たちが警察に連行された」「この放送を聞いたら直ちに対策委員会事務所前へ集まってくれ」と促した。対策委員会事務所前に集まった50余名の住民たちは会議を行ない17日昼12時に華城警察署前で連行者釈放を要求する集会を持つことになった。住民たちは17日の集会のために貸切りバス9台を予約した。

 16日の梅香里の集は日本の沖縄と同時刻に同時開催された集会(まつり)だった。しかし梅香里の集会は警察により強制的に鎮圧され、日本の沖縄の満月まつりは平和的に行われた。
 韓国の梅香里の満月まつりに参加した3名の「沖縄の米軍基地撤廃運動」の関係者によると、沖縄では16日午後6時から約3時間1500名が集まり平和的に「米軍基地撤去のためのローソクの火の集い」を終えたとのこと。


7/29(土)
基地 ノー、ヘルプ・ジュゴン 全国キャラバンFAX-MAIL通信 No.14 2000年7月28日 金曜日
〒164-0003 東京都中野区東中野1-41-5 文学会館 Tel: 03-3366-4650  Fax: 03-3227-3657 郵便振替口座 00190-1-27941(コム・未来) http://www09.u-page.so-net.ne.jp/xj8/nago/
http://www1.plala.or.jp/akahane/nago@xj8.so-net.ne.jp

6月18日〜7月23日全国キャラバンをふりかえって
「サミット」から「ポスト・サミット」のたたかいへ キャラバン全行程を終えて


 炎暑の中の、文字通り、熱く、長い、キャラバンだったが、終わってみれば、なんだか、とても短い、あっという間のキャラバンだったように
思えてくるから不思議だ。
 キャラバン全行程を終えて、全コース参加者の私達は、7月25日(火)、夜、11時20分、羽田着の飛行機で、全員、無事、帰京致しました。
 この間、実に多くの方々と出会うことができ、また、たくさんの、身に余る、御厚情、御高配等を賜わりました。
 こうした、皆さんのお力添えなしには、このキャラバンを、とても完遂することはできなかったことだろうと、あらためて痛感し、又、あらためて心より、感謝申し上げる次第です。

 皆、元気で帰ってきて、ひと休息しましたら、今度は、こうしたお世話になった方々をはじめとする皆さんに、私達が、今キャラバンで得たものをはじめとする「総括」を、まずお伝えし、「沖縄サミット」から、ポストサミットへ向けて、私たちは、何を、どう総括し、また、何からまた、あらたに始めるべきなのか。−正に"ポスト・サミット"こそ、本当に"正念場"だと、強く、思います。

 こうした中で、私達が、このキャラバンで得た多くの学びや、多くの出逢いなどを、どのように、活かすことができるか、できないか、私たちに課せられた"大きな宿題"だと思いますし、また、私達を、物心両面から支援してくださった多くの皆さんに、また、沖縄の、これからの、真の意味での、たたかいに、本当の意味で、応えていく責務だと思います。 そうした責務に、どれだけ、きちんと応えていけるかどうか、非常にむずかしい" 宿題"だとは、思いますが、全力を尽くして、できる限り、お答えし、キャッチボールの玉を、お返ししていきたいと、考えます。(2000年7月26日 東京にて 乱鬼龍)

大きな宿題をかかえてキャラバン隊は帰ってきました
 キャラバン隊を励まし、支え、共に沖縄・名護まで心を寄せ続けて下さった全国の皆さん!無事に沖縄・名護まで完走し、G8サミットに対抗する闘いに参加し、東京に戻ってきました。いろいろのこと、本当にありがとうございました。
 25日深夜に帰ったばかりで、頭の中がまだ整理がついておりません。が、このFAX通信も最後になるので、行く先々でお会いし、お世話になった方々のお顔を想い出しつつとりあえずの報告をいたします。
 まず、ヤマトの各地の皆さんにお約束した、キャラバンカー・檄布・応援署名にこめた皆さんの沖縄への心を名護のヘリ基地反対協議会に贈呈したことを報告します。皆さんの“檄布”は、反対協がサミット期間中、開催したピースプラザという情報センターの1階正面に晴れがましくも飾られました。また、キャラバンカーは2万7000人の大結集で成功した嘉手納米軍基地包囲の「人間の鎖」直後の総括集会で、デンと真中にすえられ、その前で反対協の闘いの総括・今後の方向が述べられるなど、もう立派に沖縄の闘いの中に、その役割を果たしています。このようなヘリ基地反対協の過分のとりあつかいは、支えて下さった全国各地の皆さんの沖縄を励まし、連帯する心に対しての、ヘリ基地反対協を再生させようとする名護の闘う人々からの最大限の答礼であったと思います。
 もう一つの報告は、名護のリコール運動の挫折からくるヘリ基地反対協の内部矛盾の激化と解体、かへて加えて、日米両政府の動向と歩調を合わせる「沖縄イニシヤティヴグループ」問題の浮上の中で、沖縄の闘う主体の矛盾・困難が、このサミットに対抗する一連の闘いの中で、どう克服されつつあるのかということです。

 2万7000人の予想以上の大結集での「人間の鎖」の成功、各種のサミットに対抗する民衆フォーラムの成功と合わせ、こと名護に関して「命を守る会」の「直接請願闘争」の予想外の展開をはじめ、ピースプラザの開所、環境フォーラム、満月まつり、ゲート前のパフォーマンス、ハンケチの樹運動などなど、新しい表現の多様性を認めあいながら、沖縄の闘いの大儀と自らの闘いへの自信を深めていることを、共に参加し、強く感じとりました。特に闘いの連日の忙しい只中で、「サミット後の名護へ」として、名護の反対協を含むヤンバルピースウェーヴが「日本にとっての沖縄・沖縄にとっての日本」の緊急シンポジウムを開き、「政府専権事項である国家防衛に関する問題を5万人の都市に押し付けられた苛酷さを味わった名護市民」として、サミット後の運動論・思想・実践へのプログラムを模索するため、真正面から討論する場をもち、ここに250人が結集しました。

 G8が800億円もの金をつぎこんで戒厳令体制の中で開いたにもかかわらず、たいした成果もあげえなかったことに比べて、沖縄・名護の闘う民衆は、自らの大儀と闘いへの自信を深め、リコール運動の挫折の中から生まれてくる内部の矛盾を克服し、自らの力で今後の思想・運動・実践プログラムづくりへの手がかりを必死に掴もうとしていると、キャラバン隊を通して私は実感ました。そうした姿に感動しました。
 そのことは、ヤマトの私たちにとって、私たち自らの21世紀に生きる思想・運動・実践プログラムづくりの作業とともに、今始まったばかりの名護の人々のそれら作業に、心の通うやり方で、いかなる問題提起をし、共に闘うものとしての緊張感ある対話・討論をしうるのか、このことが求められています。
 その大きな宿題をかかえてキャラバン隊は帰ってきました。(2000年7月27日 生田あい)

【緊急アピール】 国際共同行動とJVPへの弾圧について
 7月22日の「沖縄サミット反対実行委」の集会でも報告しましたが、私たちJVPは、7・20嘉手納基地包囲行動を始めとする沖縄の人々の闘いに連携し、7・18−19国際共同行動を闘いました。イタリアのローマやミラノ、オーストラリアをはじめ、G8サミットに反対し、沖縄の米軍基地撤去を訴え、世界各地でアメリカ大使館、日本大使館にたいする行動を展開しました。
 スリランカ本国では、4千人の労働者民衆がアメリカ大使館を包囲しました。また、JVP日本委員会は、名護サポーター(東京)、連帯、コム・未来とともに6月18日〜7月23日全国キャラバンを担い、沖縄にも代表団を派遣して闘いました。

 ところで、『救援』375号(2000/7/10)にも「入管法体制下の在日外国人排斥」として昨秋以来の弾圧についてアピールしましたが、その後さらに事態は悪化しています。沖縄での行動を共にしようとスリランカから来日したJVPの活動家が、入管当局によってLTTE(タミール・イーラム解放の虎)の烙印を一方的に押され、まったく不当にも成田空港から追い返されました。
 さらに、昨日正午、入管当局・警察が成田の工場を急襲し、そこで働いている在日スリランカ人労働者34名全員を逮捕しました。そのうち12名がJVPの活動家です。今まではほとんど早朝に居住区に乱入して逮捕するかたちでしたが、昼食時を狙って確実に一斉検挙するもので、スリランカ人労働者およびJVPに対する今までで最大の弾圧です。
 これは、改定入管法体制下でますます強まる在日外国人への排斥の一環であるだけでなく、全国キャラバンや沖縄現地での闘いに参加した私たちへの意図的な政治的弾圧に他なりません。(「未来」13号、8月1日号に追加情報を掲載します。ご参照を!)

 国籍や民族を越えた皆さんの支援・連帯を呼びかけます。(2000年7月28日 サマン・プリヤンカラ人民解放戦線JVP−スリランカ)
留守番チームとして  「全国キャラバン」を出発させたら、連絡・調整のため「留守番チーム」が必要だろうということで、中年・初老の男三人がそれに当たることとし、交代で東中野事務所に詰めることにした。初めの一週間は、立ち寄り予定地の活動家から「日程・落ち合いの場所と時刻」などの打ち合わせ電話がしばしば入り、留守番らしい業務が続いた。しかし、間もなくキャラバン隊の「携帯電話」が功を奏して連絡・調整業務はゼロに近く軽減され、代わって、この「FAX・MALE」を通信する事務局体制のフォローと、「資金の後送」業務が中心となってきた。なにしろ、キャラバンカーの購入・改装などにかなりの資金を要し、道中予算の半額程度しか持たずにスタートしたのだから内幕的にはたいへんである。各地で、交流集会・宿泊など多くの活動家のご支援を受けたが、九州→沖縄のフェリー代が予想よりかなり高く、それを間に合わせるのに、ちょっと緊張したりした。主催団体としては、終わってみればご支援いただいた内外の人たちへの〈感謝〉以外に、言うべき言葉もない。皆さん、本当にありがとうございました。(2000年7月26日 大野明男)

「基地ノー・ヘルプジュゴン全国キャラバン」に参加して
 事実、私は出発当初、最初から最後まで単なる雇われ運転手として、「運動」ではなく「仕事」として参加するつもりでいた。仕事としての条件は決して好いものではなかったしそんなものは求めるつもりもなかったが、ともかくこういう機会は二度とないだろうと思って、迷った挙句に承諾した。私の理論的な立場からは、いわゆる「運動」というものを安易に行うことは許されなかったし、また私自身がそうしたものを行うことを理論的に位置付けることが出来ないまま、「学生運動」を続けて大学8年間を過ごしてきた。この4月に無事卒業でき、障害者とともに生きていく決意でいた矢先に舞い込んできた話だった。6年間寝食を共にしてきた自称、重度脳性マヒ者石川慶安氏がこの4月9日に亡くなり、ますますその決意は固まっていった。もちろん今もそれは変わらない。

 ともかく私自身の職務範囲は、キャラバンカーの運転とファックス通信のための原稿の打ち込み、その他雑用であったが、実際にキャラバンに乗り込んでみると、そんなものは何の盾にもならないことがすぐに判った。行った先々での街頭情宣や交流会では、当然、運動参加者としての発言や振るまいが求められたし、私としても、このキャラバンの趣旨にはおおむね異論はなかったので、それは不可能なことではなかった。ともかく何とかしてこのキャラバンを車だけではなく、一つの運動としての、様々な人々の思いとしてのキャラバンを最後まで送り届けることが、私の任務だと思うようになった。

 そうした微妙な立場もあってか、少なくとも沖縄に入るまでは、傍観者的なものの見方はぬけず、少し歯がゆい思いもした。そんな私にとって救いとなったのは、いく先々での様々な人との出会いであり語らいであった。今思えば、キャラバン隊を当初私は過大評価していた節があって、もっと何か政治的な企みに基づいて、このキャラバンが計画実行されているのだとてっきり思っていた。たとえそんなものがあったとしても、このキャラバンにとって意味のあるものはこうした出会いや語らい以外何もないのであって、この財産をキャラバンに参加したものは、今後、私秘的に独占し続けることは許されない。どうにかしてこうしたものを公的な言語と運動に結実させるか、その責任が私に問われている。キャラバンを終えての私のいまだ個人的な雑感の一部である。個人的な話しで申し訳ない。これからいろいろやれるよ。やるよ。(2000年7月28日 岡崎)

キャラバンの旅をふりかえって
 38日というと、ずいぶん長いように思った。だが、過ぎてしまうとあっという間だった。この38日、一日一日が何と充実した日々であったことか。東京近辺の自宅にいたのでは想像もできない毎日だった。
 府中でのデモにはじまり、横須賀で軍港をボートで見て回った体験、米第七艦隊の旗艦ブルーリッジをはじめて見た。翌日は朝5時起きして浜松へ、航空士官学校卒業後の重爆の操縦の仲間の実施学校があった“三方が原”である。士官学校では一年間練習機の訓練だから、卒業後戦闘機は明野、軽爆は鉾田、重爆は浜松、偵察は下 津と、それぞれ実際に使っている機種に応じての訓練をやる。それから戦地へ、やがて間もなく特攻である。その彼らが訓練を受けたところを感無量の思いで見学した。

 名古屋では2008年万博の予定地になっている海上の森へ、みごとな自然を見た。くだらないお祭り騒ぎでこわされるのはご免だ。当初の予定の1/2になったというが、そんなのもいらない。

 京都から大阪への途中、17年ピースボート発足以来のつきあいの辻元清美へのおたかちゃんの応援演説にぶつかった。こっちも沖縄への「基地ノー、ヘルプ・ジュゴン」のキャラバンと固い握手を交わした。大阪では釜ヶ崎をまわった。能勢農場は能力による差別なく、24時間の共同生活を通じ協同して働き、協同して学ぶ(『共産党宣言』があった)という。だが、スーザン・ジョージの『世界の半分はなぜ飢えるのか』を読みながら、その飢えの原因の一つになったという畜産をやっているのは?西宮から岡山へ、日本原の射撃場ではミサイル時代だというのにおよそアナクロの迷彩服の兵隊さんを見た。こんなのに私たちの税金5兆円も使われている!広島では原爆ドーム前で街宣。岩国では毎年100億円も注ぎ込んで埋め立ての滑走路の移転、なんと無駄なゼネコンのための工事。山口では明治維新の志士の足跡をたどる。下関 ―北九州―福岡―長崎。予想もしなかった鎌田さんと朴さんとの出会い。そして博多からフェリーで那覇へ。   沖縄でのハイライトは何といっても7000人を集めた7・15県民総決起集会と2万7100人による嘉手納包囲の人間の鎖。その1人になれたのだ!暑いなかをフーフー言いながらまったかいがあった。38日完走したのだ。(2000年7月28日 尾形憲)

全国キャラバン隊、その誇り得る成果と産みの苦しみ
 全国キャラバンの全行程中半分ちょっと参加したことになるが、貴重な体験として語っておきたいことはあまりにも多い。しかし、紙面の制約もあり、儀礼的なことは抜きにして、単刀直入にいくつか取り上げておきたい。

 第1に、ピース・プラザの開設にあわせてキャラバンカーの贈呈式を行う直前から、私たちの"全国キャラバンは中核派がやっている"という怪文書=謀略ビラが沖縄・名護の各方面に郵送・ファックスされたことについて。個性豊かというか、ざっくばらんに言って、てんでバラバラ、トラブル続きの珍道中って感じのキャラバン隊にたいして、「中核派」とは笑ってしまう。ささやかな試みである全国キャラバンにたいして、ある意味で「過大評価」し、いったい何を恐れているのだろうか?誹謗・中傷ビラを受け取った人たちは、権力的な謀略政治に溺れるものたちが何者であるかみな了解しており、キャラバンカー贈呈式はとどこおりなく行われた。全国キャラバンは、大衆蔑視の陳腐な政治を鮮やかに乗り越え、おおらかに翔け続けた。

 第2に、7月21日「命を守る会」の事務所での交流会での激論について。内地(本土)の運動にたいする批判や、「ヘリ基地を県外に移設せよ」のスローガン、署名などをめぐって、時には「右翼!」「こっから出て行け!」という激した言葉が飛び交うほどの論争となった。この時初めて知って驚いたのだが、今まで誰もこのスローガンについて意見を言ってきたものはなかったとのこと。したがって、キャラバン隊がその第1号。内地(本土)の沖縄にたいする抑圧的歴史を踏まえつつ、言いたいことを言い合える連帯の質へと少しは踏み込めたのではないだろうか。

 第3に、7月16日の満月祭りの後、その深夜、瀬嵩の浜で、すっかり出来あがった東恩納さん(「二見以北10区の会」代表代行)たちと語りあかしたこと。それまで知るよしもなかった名護地元における個々の難しい関係、ぶちまけられた思いのたけに応えるには、まだまだ非力であることを思い知らされる。このことが一番心にひっかかっている。

 最後に、キャラバン隊の主体的総括として一言。情報発信とコミュニケーションの能力とシステムについて。点が線でなかなかビシッとつながらないネットワークの脆さ、キャラバンの貴重な経験を狭めてしまう弱点を反省的に捉え返さないと・・・。情報の発信と共有化、それをめぐる協働の意義をほんとうに実践的に理解してくれる人は、あまりにも少ない。その意味で、産みの苦しみはこれから。

 7月23日の夜、キャラバン隊の解散式を行った名護東海岸・ヌーファの浜に、海がめがズリズリのぼってきて産卵した。カラスやマングースにやられずに、果たしてすくすく育ってくれるだろうか?(2000年7月28日 津村)

7/28(金) タウン誌に、「チャンプルーズ」の記事が掲載されました。新聞記者の人が書いてくれました。
ライブで語ろう!!介護保険、平和
沖縄料理店チャンプルーズ結成  介護保険や平和、在日外国人の問題など、日常生活で感じた疑問を音楽を通じて訴えようと、西武新宿線・武蔵関駅南口にある沖縄料理店「チャンプルー街」に集う有志がロックバンド「沖縄料理店・チャンプルーズ」を結成した。金曜の夜は店でライブ演奏をしている。「チャンプルー」は沖縄の言葉で「ごちゃまぜ」の意味。「ここに来る人はねみんな仲間になれる。大切なのは、一人ひとりが声をあげること」という。
 中心メンバーは、ヨッシー(33)、ありちゃん(23)、ゆっくん(18)ら8人だ。

 きっかけは、今年6月、台東区の上野水上音楽堂で開かれた音楽イベント「すべての命のチャンプリズム・コンサート」。同店のオーナーや沖縄のシンガーソングライター・知念良吉さんらの呼び掛けで、基地問題や障害者問題などに取り組む人々が昨年末に実行委員会をつくり、「21世紀こそ、すべての命を大切にする世紀に」と呼びかけることにした。当日は知念さんをはじめ沖縄のバンドや在日韓国人歌手の李政美さんらがステージを盛り上げ、同店のスタッフや常連も出演。それがチャンプルーズの「デビュー」になった。

 「『これはおかしい』とみんなで話し合った内容をもとにヨッシーが曲を作り、バンドで演奏する」と同店のシェフを努めるありちゃん。例えば「介護保険」の歌詞の一部を紹介すると・・・

 ♪国は思いやり予算で軍隊に大金を貢ぐくせに  お年寄りや障害者に出せる金は無いと言う
  おかしな話じゃありませんか ♪

 ほかに女性への暴力をなくそうと訴える歌や石原慎太郎都知事の「三国人発言」に異議を唱える歌もある。6月25日の衆院選の前には街頭でも演奏し、「みなさんが呼んでくれるなら、出張もします」と張り切っている。

 「チャンプルー街」は5年前にオープン。提携店として同駅北口に「オープンスペース街」があり、「障害」のある人もない人も共に生きる街づくりを目指す共同作業所だ。
 問い合わせは「チャンプルー街」(練馬区関町北2-28-16 п@03-3928-0417)  


JVPに対するかつてない弾圧  みなさん、こんにちは。
  緊急の情報として。 昨日正午、成田の工場を入管・警察が急襲し、在日スリランカ労働者34名を逮捕しました。うち12名が人民解放戦線JVPの活動家です。今まで以上に酷い弾圧です。 一連の在日外国人への排斥の強化の一環であるとともに、明らかにキャラバンや沖縄でのJVPの活動に対する狙い済ました事後弾圧に他なりません。 在日外国人への排斥に反対し、JVPにたいする弾圧を許さない 私たちの態度が問われていると思います。詳細は、本日編集中の全国キャラバン通信の最終号、および、近日刊の「未来」13号(8月1日)号を参照。 Hiroshi Tsumura ****************************************************************
TPCC-NST: Tokyo Peace Cyber Circle & Nago Supporter (Tokyo) http://www09.u-page.so-net.ne.jp/xj8/nago/ nago@xj8.so-net.ne.jp Associe 21 International Committee & Media Staff http://www03.u-page.so-net.ne.jp/yd5/associe/ Communist Association Future (COM-Future) International Liaison Staff http://www.ne.jp/asahi/com/f/%20com@f.email.ne.jp
IEG: "INTERNATIONALISM"(KOKUSAISHUGI) EDITING GROUP Editor http://www.ngy1.1st.ne.jp/~ieg%20ieg@ngy1.1st.ne.jp ****************************************************************
pyonpyon URL: http://www.bekkoame.ne.jp/~pyonpyon
E-mail: http://www1.plala.or.jp/akahane/pyonpyon@cap.bekkoame.ne.jp


7/27(木) 沖縄からの手紙/さとこさん
 
 
「オープンスペース街」の皆様、こんにちは。お礼だいぶ遅くなってしまいましたが、・・・突然行って、ご一緒させていただき大変お世話になり、ありがとうございました。
 全く戸惑う私を、ちゃんとフォローして下さって、うれしかったです。

 当事者の方々にもいろんな立場があって、もっといろんな側面から、精神のことを見ていく必要を感じています、強く。

 チャンプルーで夕ご飯・のむ・きくと心地よい夜を過ごさせていただきました。その後、精研に戻って、東京あちこち行ってました。皆様のところへ再び寄れなくて残念でしたが、沖縄サミットでいらしてるとおききしてましたので、お会いできること期待してたのですが、どうしてらっしゃるのでしょうか? 

 帰ってきて、また日常のデイケアで、みんなと生活しています。「街」の皆様と過ごしたひとときを思い出しながら、このデイケアでできること、どんなつきあい、態度で臨んでいくこと・・・・行政の流れというより、そのへんを日々考え込んでいます。
 
 島田さんがホームページでいろいろ出してくれています。これからホームページ、ちょくちょく読んで、できればmailとかで、お付き合いできるといいですね。

 またお会いできる日も近いことと思います。おしゃべり・食事・電車の案内と、どうもありがとうございました。皆様のご健康と幸福をお祈りしています。では、また!!


 昨日、佐々木恵さんの三線ライブがありました。一緒に、千葉で「自然塾」をやっている渡辺スガコさんはジンベ(アフリカの太鼓)を叩いて、楽しいパフォーマンスを見せてくれました。


7/26(水) 凱旋パーティー
 ブライアン森のライブの最中、アリ&ようこちゃんが沖縄から戻ってきました。まっ黒に日焼けして精悍そのもの2人。2週間ほどの沖縄での奮戦で、また何かを掴んできたようです。

 とくにアリちゃん。昨年7月に「チャンプルー」のシェフになって以来、わずか1年の間に驚異的な成長を遂げています。沖縄で部落解放同盟のある幹部活動家に、「あなたには、大人(たいじん)の風貌をしている」と言われたエピソードもあるように、アリちゃんは、今や押しも押されぬ「街」を代表する顔 (^o^) になっています。
 沖縄での奮戦記は、後日、書かれると思います。ともかく無事に戻ってきて良かったですね。

 娘さんのライブを見てきたカーミーズ一家も登場して、ブライアン森のライブを楽しみました。


2/11 李政美・チャンプルーライブ
石川のyamaさんが、チャンプルーのレポート(写真多数/nextで複数ページ)を完成。すっ、すっ、すごい! MCまで全部おこしてある。みなさんも、どうぞ。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh4501/idyonmi/mati00211.htm
戻る時は、「戻る」でバックして下さい。


7/25(火)アリちゃん&ようこちゃんは、今日の午後9時ごろ、東京に戻ってきます

7/21(金)〜24日分
ようこ
  サミット反対の集会・デモ(名護市内) 命を守る会にて交流会(瀬嵩)
 今日は朝11時半から名護市内でサミット反対の集会・デモに参加しました。まよなかしんやさん、知花昌一さん、島田正博さんなどが呼びかけ人になっているサミット反対実行委員会主催のものです。サミット反対と沖縄で明確にいっているのはこのグループだけです。
 
 現地で富田さんたちと合流し(富田さんたちは那覇から車できた)、集合場所のさくら公園で、しんやさんの唄から始まりました。その後、実行委員会の人の話、各団体の人の話がありました。 
 島田善次牧師は「もの言わぬ民は滅びる」と熱く語りました。
 知花昌一さんは、「サミットのおかげで農業も、漁業もできない。観光客も来ない。来てくれるのはみなさんだけです。」といっていました。

 そういえば、名護に来て少し話した土建屋のおじちゃんが言っていました。「サミット期間中は仕事しちゃだめなんだ」。  とにかくサミットの間に何か起こったら大変。みんなおとなしく、おとなしくしていなさいということなのです。サミットで、地元が潤うというのはうそだと思いました。

 集会の後、デモへ!しんやさんが先頭で唄い、各団体が続いた。「街」&東京病者・地域HOTラインは一番後ろに並びました。 出発寸前に、「街の人、集合ー!」というしんやさんの声が先頭のスピーカーから聞こえ、みんなで走ってしんやさんの所へ行きました。とみたさんはマラカス!?を持ち、元木さん、きむさん、橋本さんは「人の世」の旗を持ち、ありちゃんはギターを持ってしんやさんに続きました。私はしんやさんのマイクのコードをもって歩きました。しんやさんの唄とシュプレヒコールを交互にやりながら歩きました。

 しんやさんは訴えました。「G8いらない!基地いらない!基地押し付けのためのサミット反対!わったー、うちなんちゅは(僕達沖縄の人々は)だまされないぞ!」
 名護市内は人も車も少なかったです(サミット期間中はマイカー規制などがあったので)。すれ違う車の中から、手を振ってくれる人たちがいました。
 途中で、しんやさんが「ありちゃん唄ってみる?」と言ってくれ、急きょ、ありちゃんが「総理へ」を唄うということもありました。
 一時間ほど歩き、サミットが行われている万国津梁館が見える海岸で止まり、海の(湾の)向こうの会場へむけて、「サミットいらなーい!」と声を上げて解散しました。私達はみんなで食事をとり、翌日東京へ帰る富田さん達とわかれました。
 夕方から瀬嵩にある「命を守る会」で行われた交流会に参加しました。「前日の嘉手納基地包囲・人間の鎖のときに、歌っていた人でしょ?」といって何人かの人が私達に「がんばってね!」と声をかけてくれました。中にはバナナをくれる人もいました。  私達は歌うことで懸命だったのですが、見ていて、声をかけてくれる人がいたこと、うれしく思いました。(ようこ)

あり  サミット1日目、名護ではヤンパルピースウェーブという市民団体によるピースウォーク、サミット反対のデモ、各団体によるデモ運動があった。僕達は、サミット反対のデモに参加した。
 その前に行われた集会での発言、「物言わぬ民は滅びる」という言葉が印象的だった。「街」一行は、一番後ろにくっついて行こうかなと思っていたら、「チャンプルー街ぃ!!」と、まよなかしんやさんの声が。先頭のしんやさんにくっついて行く事にした。途中、僕は一曲だけ「総理へ」を歌わせてもらった。
 名護の町は人っ子ひとりいない。市民運動に参加する人、記者、サミット関係者以外、サミットを見に来る人など一人もいない。このうざったい検問、警備の中を通って、わざわざ名護まで訪れる人がいるはずがない。住民はみんな外に出ないで家にいる。商店街はシャッターの閉まっている店が目立つ。サミット景気どころか、「サミット休日」という言葉が巷で生まれるほどだ。日本政府が800億円の税金を投入して、その恩恵を受けたのは、結局ヤマト(本土)の企業だけ。沖縄はまたしても騙された。そんな無駄金があるのなら、そっくりそのまま負債を持つ貧しい国の為、または沖縄に賠償金として使った方が、有効な使い道だったろう。800億円は、たった8人の為の警備費と、その8人の口に入るキャビアの為に消えた。

 サミット反対のデモ隊は、炎天下の中、閑散とする名護市街を、まよなかしんやさんの歌にのり、「サミット反対ー!!」「G8いらないー!!」と叫びながら、サミット会場の見える所まで歩いた。会場に向かって、みんなでシュプレヒコールをあげた。


7月22日(土)  
 21日と同じように、サミット反対の集会・デモの為、名護市内に行った。
 昨日と違うのは、富田さん達の代わりに、トマさんちの居候のダイゴくんが一緒に行ったことだ。今日は名護の商店街を歩いた。とっても閑散としていた。店のシャッターは下りていて、外を歩く人も少ない。でも、みんな家の中から窓を開けてデモ隊を見ていた。このサミット期間中、地元の人は仕事もできない、外にも出られない。

 夕方、二見の三叉路で行われた、「新たな基地建設は許さない、普天間基地は無条件返還−アピール行動」を見に行った。このイベントは、超退屈なサミットの中日、歌あり、リレートークあり、踊りあり、紙芝居もありという内容で十区の会、新たな基地いらないやんばる女性ネット、やんばるピースウェーブの主催で行われた。高校生のストリートダンスなどもあっておもしろかった。飛び入りで通りがかった喜納昌吉も踊っていた。そこで具志堅さんと偶然合った。海・空・大地は私達のものという事をアピールしていた。夕食を食べたあと、ニライカナイ祭りに行った。西岡さんというおじちゃんと一緒にトマさんの家に泊まる事になった。

7月23日(日)
 午前中は、西岡さんと話をした。西岡さんは売春婦や路上生活の人達からいろんなことを学んだ。彼らが自分の師だと言っていた。那覇まで真央さんが車で送ってくれた。 すごい雨の中、真央さんは高速へ入ろうとしたが、サミットを終えた要人が使う為、閉鎖されていた。「急いでいる人はどうするのよー」真央さんは怒っていた。車の中、基地移設に伴う市民運動について、市民運動っていうのは市民ひとりひとりが主役なんだと話す真央さんの言葉が印象に残る。
 夜はコバルト荘に泊まった。照屋さんご夫妻の顔を見ると、家に帰ってきたようにほっとした。

 7月24日(月)
  摩文仁の丘と平和の礎を見に行った。 月曜日で休館日だったので、平和記念資料館には入れなかったけど、平和の礎は見た。 碑に刻まれた名前、沖縄の人が圧倒的に多い。北海道の人も多かった。台湾や朝鮮の人の名前もあった。 数日前、クリントンはここへ来て、「命どう宝」なんて事を言った。本当にそう思うんなら、基地を全部なくすべきだ。

  その後、平良牧師がいる「うふざと教会」に行った。急に行ったにもかかわらず、平良さんは私達と話しをする時間を作ってくれた。以前送っていた週刊「街ニュース」とパンフレットを持って、一つだけ話をしたいと言った。祭日という表記について、祭日っていうのは、宗教の言葉であって、日本政府は使わない。なぜかというと、日本は政教分離の国だから、政府が意図的に使わない言葉を市民が使う。この鈍感さを平良さんは指摘した。市民が使えば政府は自分達のいいようにそれを利用する。

  今、国は税金ではどこの宗教団体もお金を使わないけど、靖国神社を国のお金で面倒を見たい。今なぜ靖国神社を国のお金で保持しようとしているか。それは、次戦争が起こった時に、死んだ者を英霊として受け入れる準備をするため。靖国神社を国の管轄に置こうとしている。 この戦争をおこさない、戦争を起こす国にならないように、いろんな人達がいろんな方面で戦っている事を知った。 

 コザにMさんに会いに行った。Mさんはインターネットで「街」のことを知りメールをくれた。ちょうど、「街」の人が沖縄に来ているので、会って話をしましょうということで、彼女を訪ねた。彼女はまず自分が中途障害で十年ひきこもっていた事を話した。でも、人と話をしたりしたいと思って出始めた。そうする中で感じたことをはなしてくれた。

 施設にもはいったが、そこで、こうしたほうがいいのでは、と提案すると前例がないと頭ごなしにいわれたこと。 そういうところでは、おとなしくしていなければいけない。行政が身体障害者のために何か作るとき、出来上がってから知らされる。作る前に行ってくれれば、意見もいえるのに。結局、使えるためのものをつくるのではなく、アリバイ的に作ることが多い。前例がないことなら、私が前例になる!! という彼女の言葉に、私まで心が熱くなった!
 ザンギリスへご飯を食べに行ったら、サミット反対実の打ち上げをやっていたので、参加した。みんなお酒もほどよく入り、熱く熱く語っていた。この日もコバルト荘に泊まった。


7/24(月)  

基地 ノー、ヘルプ・ジュゴン 全国キャラバンFAX-MAIL通信No.13 

2000年7月24日 月曜日
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No.13 Version 5 Under Construction

嘉手納基地包囲、サミット反対、ピースウォーク、直訴7月20日嘉手納基地包囲に参加して
  今日はいよいよ嘉手納基地包囲だ。初めて包囲に参加する私としては、「果たしてつながるのだろうか」と余計なことをふと考えたりしてしまう。
 現地には早めに到着し、近くの屋良小学校で早めの昼食をとる。その間にも、独立組合の合宿で一緒になった労働雑誌の編集者の○○さんに数年ぶりでお会いした。12時40分頃、屋良小学校近くの場所に陣取って、全国キャラバンの横断幕、のぼり旗、浜松でいただいた鯉のぼり旗などを壁に張りつけた。
 その中でも特に道行く人の目を引いたたのは、JVPのサマンさんたちが用意したサミット反対の横断幕であった。「G8は世界中の人々を奴隷にするためのものだ」「基地は沖縄にもどこにもいらない」「世界銀行、IMF、WTOは人民の敵だ」である。足を止めてながめる人あり、カメラを構えてシャッターを切る人あり(その中には日本共産党の腕章を巻いた人もいた)、簡潔明瞭なインパクトのあるスローガンだった。
 また、地元のテレビ局(NHK)は輿石さんに注目し、インタビューをこの間ずっとしていた。沖縄に来て15年、地元に認められる存在なんだな、と思った。包囲行動は2時から3時にかけて3回行った。輪はどうなることか、と心配だったが、「二重になるところもあり、つながりましたと聞き、ホッとした。とりあえず、これで、今後の闘いにつなぐことができたのではないかと思った。さらにこれからどうするのかが問題だ。
 解散してから(帰途につくまでの間)何人もの知り合いの人に合い、エールの交換をしたのも楽しかった。明日からの行動がどうなるのか楽しみだ。(吉岡滋子) 始めての嘉手納基地包囲に参加した。沖縄最大のこの基地には15の村があったという。東京都品川区と同等の広さをもつこの嘉手納基地を2万7千人もの平和を希う人々よって包囲する人間の鎖が大成功する。場所によっては二重の鎖にもなり、ウエーブあり、独特のパフォーマンスありといった具合で非常な感動を覚えた。この包囲の中にカデナ基地付近のオジーが2人飛び込みで参加をされた。その時、嘉手納基地からの悪臭は相当なものであるということを話された。それがあの厚い壁があってもということである。だからこそ名護の海上ヘリポートを作ればどのようになるかということもよくわかるということであった。
 私達はこの非暴力の力によって平和を希う声をあきらめることなく発信していかねばならない。(佐藤玄宗)

 7月20日、嘉手納基地を一人びとりが手をつないで包囲する"人間の鎖"の行動に参加した
  この日も暑かった。予め十分な水とパンを用意しておいて、私たちキャラバンは基地の第4ゲートと第3ゲートの間に陣取った。屋良小学校の近く、名護東海岸の分担となっている場所で、エコネット・美の若いスタッフ、ヘリ基地反対協の輿石さんや、おじい、おばあたちと一緒に。沖縄現地の人々を対象にしたビラをまく。定刻の2時までには、私の見える範囲ではすでに人々は基地の高い塀の前の道路をまんべんなく埋めつくしていた。私たちキャラバンが居た場所の隣には「学生の貧乏くささを守る会」(法政大学)、中央大学の学生、アソシエ21の事務局、だめ連界わいの人たちが居た。
 2時に内向きに手をつなぎ、2時半に外向き、そして3時に再び内向きに手をつないでウエーブ(波)を表現するために、一旦全員が座ることを試みる。だがこれはうまくいかず、初めから座らない人々もいた。ヘリ基地反対協の指示も、基地周囲の広さのせいで必ずしも参加者全体に伝わっていなかったようだ。何しろ嘉手納基地は極東最大なのだ。
 しかしそれにもかかわらず、3度目に手をつないだ時の参加者数が最も多く、後のマスコミ報道では2万7千百人だった。(この時、主催者がスピーカーで放送したところでは、2万9千何百人と聞いていたが)終わった後の参加者の方たちの表情は、おおむね満足そうであった。(松田敏典)

7月20日−21日 名護東海岸・ヌーファの浜にて
 7月20日、嘉手納包囲闘争の熱気さめやらぬまま、全国キャラバン隊と首都圏の学生たちおよそ30名は、バスとトラックを乗り継いで移動し、一山越えて、名護東海岸ヌーファの浜に降り立った。学生たちは「貧乏」の旗を風になびかせ、トラックの荷台でおおはしゃぎ。ガスも、電気も、水道もない、時がゆるやかに積もる浜にて、泳ぎ、遊び、食事し、酒をくみかわし、交流の輪が広がる。こういう空間での議論、交流はとても面白く、実り豊かだ。 カマドで作る沖縄料理も、人民解放戦線JVPお得意のスリランカ料理ロティも、ステキに美味しい。
 ウミガメが産卵にゆるゆるのぼる浜、サンゴとジュゴンの美(チュラ)海にヘリ基地はいらない。ここにいれば、自然とその想いが湧きあがって来る。翌朝、サミット反対実の集会・デモ、ピース・ウォークの取り組みに合流すべく、心残りで浜を後にし、山を登る。(津村)

 7・21−22 サミット反対実 名護市内デモ(ガガガのガ)
 沖縄全体がほとんどと言っていいほどサミット反対の陣形を築けないでいた。名護市内は過剰の域を超えるほどの警備体制でキャラバン隊は行く先々で官憲と口論になった。街中のあちらこちらに黄色い服を来たサミットボランティアがつっ立っていた。ボランティアという響はこういった地域社会では実に残酷な言葉であって、これは強制労働そのものを意味している。こうした状況のなかでサミットが開催されて心の底から、喜涙する者など客観的に見てありえない。サミットなど早く終わってほしいというのが彼らの心情か。
 ともかく反サミットのわずかな取り組みとしてサミット開催期間中に名護市内で連日、サミット反対・基地撤去を求めるでもが行われた。我々が参加した2日間とも300人前後が結集して多彩で賑やかなデモとなった。というのも参加者のほとんどが本土から来た、様々な党派の部隊で占められていたからである。 初日は、前日に合流を果たした、東京の「貧乏」なノンセクトの学生活動家たちとともに隊列の最後尾を担当。サミット会場でナベを食わせろだの、各国首脳は学館まで来て我々と酒を飲め、などと激しいシュプレッヒをコールしていた。
 2日目は、スリランカの人民解放戦線JVPのサマン氏がデモ出発前の集会でアピールし、全国キャラバンおよび国際共同行動の報告をし、連帯の決意を表明した。スリランカ本国で、彼らの同志4000人が、在沖米軍基地撤去、サミット反対を訴え、アメリカ大使館を取り囲んだという報告で、会場から拍手の雨あられを、浴びせられてしまっていた。 デモコース自体はさほど長いものではなかったが、とにかく熱く、頭もボーっとしていたので、果てのない熱帯砂漠をいつまでも歩いているようなふうに記憶している。沿道のオジイやオバア達が手を振ってくれたり拍手を送ってくれていたが、熱波の介在により意味が分からなくなっていた。
 まよなかしんや、ただ一人だけが沖縄の熱い太陽とは無関係であったようだ。(岡崎)

7月21日午後2時から ピース・ウォーク 安奈さんからの投稿
 格別の暑さとなったサミット初日。連日のエコツアーガイドでヘトヘトだったが、お疲れ様のキャラバン隊の皆さんと一緒にピースウェーブに参加した。「基地にたよらず命の自立」という言葉の重みにつぶされそうになっていたここ数ヶ月の弱気な私を、もう一度「まだまだ頑張らなくっちゃ!」と元気付けてくれた行進だった。
 今朝のヌーファの海は、騒がしい西海岸を静かに見守っているかのように実におだやかな様子で、子育てに奮闘するルリスズメの大家族も相変わらずに楽しそうにやっていた。白化現象ですっかりやられてしまったサンゴ達も、ますますたくましく小さな芽を伸ばして懸命に生きていた。デモ行進よりも、海の中で彼らに囲まれてのんびりやっていた方が楽しいに決まってる。でもそんな彼らのためにも、陸で私ができることをやっていかなくちゃ!かかげたパネルに込めた彼らの命の尊さが、少しでもたくさんの人に伝わったことを期待している。7月21日 クリントン大統領・森首相への「直訴」(直接請願)闘争の興奮さめやらぬ

 ヘリ基地反対協・命を守る会メンバーとの交流会、楽し! 
  21日午後7時、辺野古の海辺にある「命を守る会」事務所にて、守る会代表の金城祐治、同事務局長の宮城保、ヘリ基地反対協共同代表の安志富浩さんらと交流会を持った。
 丁度その日、「命を守る会」のオジー、オバーを中心に、日米両首脳に対する在沖米海兵隊普天間基地の名護辺野古への移設に反対する直接請願があり、その予想外の展開の直後とあって、お会いした方々は、極度の疲労をにじませながらも、闘いの熱気と興奮に満ちていた。
 冒頭、安志富さんより、私たちの全国キャラバン・キャラバンカー贈呈に対して、過分の御礼とともに、「励まされた」との話しがあった。 圧巻だったのは、今終わったばかりという逮捕覚悟での、直接請願闘争の先頭に立った金城さん、宮城さんの話しだった。
 お話によれば、G8サミット会場へ通じる最初の検問所で、その封鎖線を破ることは難しいと思っていた当初の予想をこえて、地元の新聞社ですら入ることのできないブセナのサミット会場入り口まで、次々と二重・三重の検問所を開けさせ、押し入り、その近くにあるヘリパットから次々とドイツ、ECの首脳、そして最後にはクリントン大統領が降り立ち、会場に入っていくのを目の当たりにしたこと。更には、大統領に直接会うために、大統領宿舎の万座ビーチホテルまで行って、ついには米領事館をも引き出して、請願への直接の答えを迫ったというのだ。
 沖縄市民・沖縄県民としての正当な要求を、沖縄の大義と誇りをもって、正々堂々とつきつけ、次々に検問を開かせていった様子が、身振り手振り、その時のせりふも含めて、再現され、その都度、キャラバン隊は思わず皆拍手をし、まるで私たちも、彼らが先導する一行についてサミット会場内に押し入ったような不思議な臨場感あふれる興奮にひきこまれていった。
 その場の皆の顔が輝いていた。  「米日首脳に合えんかったが、面白かった!」 「命がけの闘いの気迫だよ」・・・そうした闘いの感情への共感が皆を包んでいた。そんな楽しい雰囲気だからだろう。これまでには出てこないようなヤマトの人間、闘いへの批判も口に出され、また、キャラバン隊員との激論にも発展した。
 残念ながらサミット期間でもあり、またの討論・交流を約束して、散会となった。
 私の勝手な思い上がりと叱られるかもしれないが、これまでと違う何か、心の扉が開きかけた感の、それゆえに想うところの深い、交流会であった。そのことがうれしかった。(生田あい)

7月22日 ヘリ基地反対・名護東海岸フィールドワーク
 
今日はエコネット・美(ちゅら)の輿石さんの案内で沖縄の東海岸を見学・学習した。
 瀬嵩を出発し、まずはキャンプシュワブのゲート前で米兵と対峙。次にヘリ基地予定地の辺野古海岸に出て、建設予定ポイントの海を眺める。この美しい海の沖合いに2千5百メートルのヘリ基地を建設する無謀な計画に呆れる。しかし、米軍は本気で沖縄基地の再編整備を推し進めようとしている。そのポイントが辺野古沖のヘリ基地だと言える。
 キャンプシュワブ及びキャンプハンセン、そして北部訓練場と伊江島訓練場を結ぶポイントが、この辺野古のヘリ基地にあるとの説明を受け、その構想に驚き、狙いを了解す。
 さらに輿石さんから、このキャンプシュワブは沖縄で唯一現地住民が誘致して建設された基地であること。したがって、米軍は多少の反対があってもけっきょくは生活のため、金のために建設を認めるだろう、という事を米軍は長年の支配の中で冷静に分析している等を聞かされ、ショックを受ける。
 日本の左翼や市民団体は、すぐに反安保・反基地の闘いを、とぶち上げる。だが、それを単なる政治スローガンではなく、生活や暮らしに密着した闘いをどう作り上げていくか、こうした視点が欠落しているよ、との指摘を受けた。
 私たちも、今一度沖縄との真の連帯とは何か?どのような運動を構築していくべきか?この事を考えさせられたスタディーツァーであった。(E.T.)

7月22日 新たな基地はいらない・アピール
 7月22日午後3時から、名護市街地から東海岸に抜ける二見三叉路にて、「沖縄の海・空・大地は私たちのもの 新たな基地はいらない/普天間基地は無条件返還を!
 7・22共同アピール」行動だ。サミット反対実の集会・デモ、ヘリ基地反対・名護東海岸フィールドワークに別れて参加していたキャラバン隊は、ここで再度合流す。
 宜野湾市の普天間第2ゲート前でも、同時刻に連携した取り組みをしている。歌あり、ダンスあり、三線ありの街頭パフォーマンスの間に、次々とリレートーク。最後に7・22共同アピールが読み上げられ、全体の拍手で確認し、様々なメッセージをしたためたハンカチの鎖を取りつけ、基地反対・環境保護の看板の回りが飾り付けられ、二見三叉路をにぎやかにす。(津村)
【この通信は次号、7月28日(金)の14号で最終号となります。】
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7/23(日)

基地 ノー、ヘルプ・ジュゴン 全国キャラバンFAX-MAIL通信No.11

2000年7月17日 月曜日 〒164-0003 東京都中野区東中野1-41-5 文学会館 Tel: 03-3366-4650  Fax: 03-3227-3657 郵便振替口座 00190-1-27941(コム・未来) http://www09.u-page.so-net.ne.jp/xj8/nago/・A href="nago@xj8.so-net.ne.jp">@nago@xj8.so-net.ne.jp No.11 Version 4 Under Construction

7・15県民集会、那覇から名護東海岸・瀬嵩へ沖縄でのキャラバン報告 その
 沖縄に着いてからの報告ということだが、前回の乱さんの報告もあり、ここでは平和祈念館訪問と国際環境NGOフォーラム、それに県民総決起大会に絞ることにする。
 7月11日、私はバスで糸満まで、そこからタクシーを乗り継いで平和祈念資料館に行った。古い資料館は2度行ったことがあり、まだ取り壊されもせず残っている。かなり丹念に見てまわったので、2時間40分ほどかかった。旧資料館は、戦争中のことについてだけだったが、新資料館は戦後についてもである。戦争中のものについては、忘れたものや見落としたものがあるかも知れないが、新しく付け加えられたものとして、生存者の証言が文章でだけでなく、ビデオによるものもあるのはよかった。また泣きわめく子供の口を抑えている母親の傍らの日本兵(銃剣が住民にでなく上に向けられている)、置きざりにして行かざるをえない重傷者に飲ませるミルクに青酸カリを入れている兵隊の人形も前はなかった。ただ、「集団自決」(新資料館では「集団死」)に使われた道具として石、鍬、縄、猫イラズなどというかなり長文の説明と、ガラビガマに残されていたという水の入った水筒はなぜかなかった。だが、「日本兵による住民虐殺、『集団死』の強要、食糧強奪、乳幼児の口封じ」「乳幼児を負って切込隊に参加の母親」などの生々しい叙述も多く、総じて案じていたような「改ざん」は目につかなかった。
 戦後についてはとくに米兵の犯罪のリストが目をひいた。敗戦後間もなく子供を負った母親が米兵にら致されて行方不明になり、3年後白骨となって発見せれたことから、一昨年10月の女子高生の轢き逃げまである。私がいつも米兵犯罪の例で上げるのは、米将校がメイドをレイプしたが、これを知った彼の妻はそのメイドに庭に穴を堀らせ、ピストルで撃ち殺してその穴に埋めた事件である。事はわかっても一切公にされず、将校夫婦はそのまま帰国したという。リストでの、「1968年1月30日浦添村の米兵兵舎でメイド殺害」というのが多分これだろう。
 またコザ暴動の記述や復帰後初の県知事に選出された屋良朝苗さんの「復帰は嬉しいが、県民の感情を十分汲み取ったものとは思えない」という趣旨の発言も目についた。戦争中の史料や記述と同様、これらも県議会の人権無視の公職追放決議の対象となった一坪反戦地主である新会館委員たちの努力とこれを支えた世論の改ざんへの反撃の結果であろう。
 フォーラムは14日の全体会、15日の4分科会は午前4人のキャラバンメンバ[がそれぞれの分科会に、午後は全員私たちが名護でお世話になる方の報告がある第4分科会へである。私は午前「世界市場化と環境問題」に出席したが、とくにアメリカが中心となっておし進めているGATT→WTOの政策により、巨大企業はますます南北問題を深刻にし、ごくひとにぎりの国に集中するアグリビジネスは私たちの食生活を量的にも質的にもいよいよ危険なものとしていることを改めて思い知らされた。しばらくぶりにお目にかかった水俣病の権威原田正純さんの報告「発展途上国における環境問題の特徴」では、日本が100年かかった工業化をこれらの国々が10〜20年という短期間に息せききって実現しようとしたため、解決がきわめて困難にな「複合汚染」を生み出したことが指摘された。また輿石さんの報告は「内発的発展の取り組みと課題」というテーマに対し、「自然を生かした地域興し」の試みとしての「じんぶん学校」についてである。私はこれまで何度かここに泊まったことがあり、電気もガスもないが、自然の懐のなかでの伸びやかな暮らしを思い出した。私たちは今回のキャラバンの旅の最後の2日をここでお世話になることになる。
 このあと私たちは宜野湾市の海浜公園で行われた「米兵によるわいせつ事件糾弾及び連続する事件・事故に抗議する緊急県民総決起大会」にかけつけ、入り口でキャラバンのビラまきをした。緊急な集会で準備期間がきわめて短かったのにもかかわらず、5千人という主催者側の目標をはるかに上回る7千人余の参加である。相次ぐ米兵の犯罪に「綱紀粛正」がまったくの空文句であることへの人々の怒りを示すものといえよう。1時間余りの集会だが、喜納昌吉さんのミニライブ「花」をはさんで、熱気あふれる大集会となった。
 翌16日は午後からフォーラムの名護シンポ「ジュゴンと共に生きる・もう一つの地域づくりの在り方を求めて」で、すっかり顔なじみになった宮城康博さん、東恩納琢磨さんや、知花昌一さんの報告もあった。フォーラムは翌17日までだが、私たちは今日までの参加である。参加は、日、英、米、独、豪、中、台、比、ベトナム、韓、プエルトリコの11カ国で、私がピースボートなどで訪れたことのある国々の方とは、短い期間だったが、顔見知りとなって、再会を期して別れた。 この夜は瀬嵩の浜で「満月まつり」である。(尾形憲)沖縄タイムス7月15日より引用 基地包囲に参加 米軍基地撤去を訴えながら東京から沖縄まで縦断している「基地ノー、ヘルプ・ジュゴン 全国キャラバン」が13日、沖縄タイムス社を訪れた。=写真。
 ワゴン車で6月18日に東京を出発し、9日に沖縄入りした一行は4名。12日に県庁を訪れ、@ガイドラインへの協力拒否 A 米軍基地撤去を求める市民運動の支持 Bジュゴンの保護支持−を訴えた申し入れ書を提出した。20日の嘉手納基地包囲にも参加する。
 関充明隊長は「田中正造の言葉に『公益々々と呼ぶも、人権を去って他に公益の湧き出るよしも無之と存じ候』とある。まさにその通り。沖縄に滞在する残り2週間を頑張りたい」と話した。(沖縄タイムス2000.7.15朝刊)

前半戦、今だ総括できない総括
 日米の軍事基地を初めとして、日雇労働者の問題、在日朝鮮人の問題、環境破壊と資本の側しか見ない公共事業や産廃問題、原発、原爆投下55年目の現実、そして国労労働者切り捨て、その他様々なこの国の矛盾と現実、一方で、そうした現実に沈黙を守らせようとする街の権力風景、他方で、そうしたものを打ち破ろうとあえてこうした矛盾に異議申し立てを粘り強く主張する人間の力と表情。現実と絶望と希望が複雑に交錯した思いがひしめく2,500キロの中をわずか20日間。この文章のように今のところ何ら抽象化もされなければ具体性もない旅に、全国キャラバンとしてこれに具体的な意味を付与できるかどうかは、我々の今後の17日間、それ以後の行動と想像力にかかっている。何の意味も内容もない総括だが、ともかくこういう思いでいる。(岡崎耕史)米兵によるわいせつ、ひき逃げ事件糾弾! 犯罪の根源=全米軍基地の撤去を!

【7月16日】
7000人「基地」を糾弾/米兵事件で緊急県民大会 http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000716a.html
「遺憾の意」聞きあきた/”口先対応”に抗議 http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000716d.html
海外メディアも注目/「県民感情も報じたい」 http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000716e.html
何もしないのは犯罪加担/レッドカード運動提唱/島袋博江さんhttp://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000716f.html
経済発展につれ破壊進む/国際環境NGOフォーラム http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000716c.html

【7月15日】
米兵事件に抗議し、きょう県民大会 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200007151300.html#no_2
地雷を根絶しよう/チャンナレットさん来県 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200007151300.html#no_11
2万5000人で「嘉手納」包囲/実行委、準備着々 http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000715a.html
「深刻な基地汚染」/国際NGOフォーラム http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000715b.html
続発する米兵犯罪に怒り/韓国で地位協定の改定機運 http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000715e.html
「差別なき社会」訴える/石垣で外国人フォーラム http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000715l.html

【7月14日】・BR> 米兵のひき逃げで抗議決議/県議会 異例、会期中の再可決 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200007141700.html#no_1
知事不参加の見通し/米兵事件抗議大会 http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2000/2000_07/000714f.html
NGOフォーラムで全体会議 環境保全の新たな枠組み探る http://www.okinawatimes.co.jp/day/200007141700.html#no_2
金城実展始まる、メーンの彫刻作品大判写真で展示 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200007141700.html#no_5
基地オキナワ身近に感じた/環境NGOフォーラム 参加者象のオリ見学 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200007141300.html#no_10
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基地 ノー、ヘルプ・ジュゴン 全国キャラバンFAX-MAIL通信 No.12
2000年7月21日 金曜日
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No.12 Version 4 Under Construction

ピース・プラザ開設にあわせキャラバンカー贈呈式
7月19日(水) シンポジウム「日本にとっての沖縄・沖縄にとっての日本」に参加して。
7月19日の午後2から7時まで、名護市内の名桜大学でヤンバル・ピース・ウエーブ実行委員会内のシンポジウム「日本にとっての沖縄・沖縄にとっての日本」運営委員会主催により、同名の緊急シンポジウムが行われた。副題は「異質としての沖縄・その原点と方向性」となっている。私たちは前夜おそく到着したスリランカのJVPの2人を含む9人を加えた15人が全員参加した。全体の参加者は約300人である。 「方向性」は「サミット後の名護へ−思想の継続」とあり、主催者側の声として、「問題は『外因』から何を学び、運動論として、思想として、実践へのプログラムとして何を内因化するかにつきる。サミット後の名護を支えるものはそれ以外にない。このシンポジウムは、内面化の生みの痛みが個々の来場者の中でどう芽生え整理されてゆくか。そこに正否がかかっている」と結ばれている。

 シンポジウムはヘリ基地反対協の輿石正さんの司会により、琉球大学教授比屋根照夫さんの基調報告で始まった。ついでジャーナリストの長元朝浩さんと伊高浩明さん、フェリス女子学院大学教授武者小路公秀さん、東京国際大学教授前田哲男さん、沖縄対外問題研究会代表宮里政玄さん、那覇市議会議員高里鈴代さん、小説家日取真俊さんの報告があり、欠席された姜尚中さんはビデオでの報告があった。間に「やんばる・いのちの時間」というやんばるの生物たちのスライド上映をはさんで討論が行われた。

 沖縄の異質性の確認の上にその特別自治制や連邦制、安保破棄、日米安保を底辺として頂点に韓国や中国の軍事力というアジアの安全保障体制になっているが、底辺を徐々に小さくして逆三角形にすべきこと(自衛隊容認)、南北朝鮮の統一が実現しても沖縄の米軍は沖縄を発進地として世界各地へ出撃するものだから、すぐさま減少するとは考えられないなど、サミット後の沖縄についていろいろの意見が出されたが、私がもっとも印象深かったのは、五年前の米兵による少女暴行事件後米兵の性犯罪を調査してアメリカに渡り、上院議員らに訴えたら、事実をまったく知らなかったと驚かれたこと、優勝劣敗は武力によるものだが、武力で平和は保たれないこと、国の安全保障を言う前に一人ひとりの人間、とくに女性の安全保障をと訴えた高里さんの報告であった。

 帰路車中から海を隔ててキャンプ・シュワブの煌々たる灯りを見た。この灯りが消えるのはいつのことだろうか。(尾形憲)国際共同行動についてのJVP・キャラバン隊の記者会見 19日午前11時、名護の官公労共催会館北部会館にて、スリランカ人民解放戦線JVP日本委員会との「基地ノー、ヘルプ・ジュゴン」全国キャラバン隊の記者会見を行いました。18日午後の、名護東海岸・辺野古で、命を守る会での記者会見に同席し、そのおり記者の方々にお知らせしたかいもあって急きょ実現することができました。

 記者会見の内容は、第一に、ヨーロッパ、オーストラリア、スリランカにおけるサミットに対抗し、沖縄の米軍基地撤去を訴える国際共同行動の報告、第二に、改訂入管法体制下でのJVPやスリランカ人労働者、在日外国人への弾圧についてでした。 スリランカの非常戦時体制、日本の入管体制によって、スリランカ本国からの、および在日スリランカ人の訪沖が、空港から送り返されたりして、不可能になっていることも明らかにされました。(国際共同行動については、13号でご報告します。)(津村)

7月17日(月)〜18日(火) ピース・プラザのオープンとキャラバンカーの贈呈式

7月17日(月) キャラバンカー、沖縄(ヘリ基地反対協)へ贈呈される。

 山形から来たという女性を途中までお送りしながら、名護市辺野古の「命を守る会」の事務所を表敬訪問。同会代表、金城祐治さんをはじめ、一同の皆さんに、キャラバン隊のあいさつをする。その後、同市内にある徳田球一(戦前、戦後の日本共産党の闘志・故人)の碑の前にキャラバンカーを停めて一同で記念写真をとる。

 夕方6時からは、沖縄サミットで名護市を訪れる海外メディアに向け、基地問題の情報を発信する拠点「ピース・プラザ」(同プラザは、サミット期間中、市内25団体が基地の県内移設反対をアピールする「ヤンバル・ピーズ・ウェーブ」の一環。日本語と英語の資料や映像などを展示している。)がオープン。そのオープンのセレモニーに合わせる形で、私達のキャラバンカーの贈呈式を、セッティングして頂き、晴れやかな贈呈式となる。(マスコミ取材多数、海外のメディアもあり)こうして、およそ3000Km以上を走りつづけてきたキャラバンカーは、無事、沖縄の、ヘリ基地反対協へと贈呈され、今後の、地元での運動のために、お役に立てて頂くことになりました。

 この間、このキャラバン及びキャラバンカーのために、ご支援、御厚情を頂きました多くの皆さんに、御礼の意味をこめて、ここに、謹んで、ご報告をさせて頂きます。(下の琉球新報の記事参照)

 7月18日(火)は、午前9時、名護市役所を表敬訪問。同市企画部長室室長、中本正泰さんが応対に出る。各地でも申し入れてきたのと、同文の文書を渡し、20分ほど私達キャラバンの趣旨を説明してくる。今夜は、東京から新しい参加者が増え、いよいよ、嘉手納基地包囲行動直前という感深まる。(7月18日午後6時 名護にて 乱鬼龍)

【琉球新報からの引用】 名護 ピース・プラザが開所 サミット報道陣通し平和訴え 【名護】名護サミットで訪れる報道陣に、やんばるが抱える基地や環境問題を伝え、平和を発信してもらおうと、ヤンバル・ピース・ウエーブ実行委員会の「ピース・プラザ」が17日、名護市城通りに開所した。ヘリ基地の機能や実態、ジュゴンの生態ほか米軍基地や市民運動などを5つのセクションに分け、一、二階で展示している。23日までの毎日午後1時から8時まで開いている。

 開所式であいさつしたヘリ基地反対協議会共同代表の新城春樹さんは「サミットは私たちの思いを世界に伝えるチャンス。多くの報道陣が訪れ、平和を思う沖縄の心を伝えてほしい。その拠点にしたい」とプラザ開所の意義を語った。 開所式に先立ち、先月東京を出発、名護に到着した「ヘルプ・ジュゴン」キャラバン隊から、全国から寄せられた署名やキャラバン車の贈呈が行われた。 ピース・プラザは市内城十字路から市役所向け左側。建物を、平和を願う寄せ書きのハンカチで飾っている。

 ヤンバル・ピース・ウエーブ実行委員会では、19日のシンポジウムはじめ21日のピース・ウオーク、22日の新たな基地はいらないアピールなど、さまざまな取り組みを通じて名護市の基地問題と平和を訴えていくことにしている。(琉球新報7月18日夕刊)7月16日(日) 「満月まつり」に参加して
 7月16日、私たちキャラバンは第2回の『満月まつり』に参加するために名護市東海岸<瀬嵩ヌ浜>へ行った。定刻の夕方6時すぎで、浜辺にはすでに二百人くらいいた。太陽が沈むにつれて暗さは増し、いつの間にか月が出ていた。文字どおり、満月だった。出演者の海勢頭豊さんの歌「きせんばる」には、いつも私の心が揺さぶられる。美しいメロディだ。

 ソウル・フラワー・ユニオンという若いバンドが労働運動の歌『がんばろう』をアレンジして唱った。私は思わず魅かれて、舞台前に固まっている他の若者たちと一緒に音頭を取って踊った。キャラバンの仲間はいつの間にかバラバラに散っていた。しかし後で、この時の私の様子を聞くことには、「ウチワを持って踊る姿が影絵のように映って、ピッタリとはまっていた」という評判である。

 それはさておき、そろそろ皆既月食が始まっていた。舞台の向こう側の浅瀬に3つの大きな岩があり、舞台からの光に照らされて、その姿を浮き上がらせた。何ともロマンティックな風景であった。

 祭りのしめくくりは喜納昌吉さんの曲で、会場全体が沸き立った。私は彼の発言の中で、「右翼も左翼もなく、なかよくしょう」という部分については非現実的だと思った。まあ、これも彼らしいロマンティシズムなのだろう。(松田) ________________________________________________________________________ Get Your Private, Free E-mail from MSN Hotmail at http://www.hotmail.com


7/22(土)途上国の精神保健を支えるネットワーク」にご支援お願いします
 皆さんお元気ですか? 暑くなりましたね。すっかり夏ですね。お身体気をつけてお過ごし下さい。 お知らせです。

 
こんにちは。今日ほど精神保健の課題が、先進国や途上国を問わず比重が高くなっている時はないと思います。日本において、精神障害者を隔離・収容するための法律であった「精神衛生法」は改訂されましたが、精神障害者のおかれた実態はそれ程変わらず、相変わらず入院患者数は多く、地域での生活も自立した生活とはほど遠いものと言えます。勿論、欧米より30年遅れていると言われている日本においても、いくつもの意欲的な取り組みはなされています。
 私たちは、そのような足下を見つめつつ、精神保健を通して、地球に住む様々な人達と結びつき、支援のネットワークを作っていきたいと考えています。
 私は、昨年カンボジアとニューヨークに行き、外国の精神保健施設を見る機会を持ちましたが、途上国の課題は先進国のシステムを導入すれば解決がつくわけではなく、それぞれの固有の課題に直面しながら、様々な実験をしているように思えました。当然にも精神保健の課題は、他の政治、経済的な問題とも絡み合っているわけです。
 私たちも精神保健分野で決して経験の蓄積がないわけではないですが、それを外から持ち込んでうまくはいかず、そこに生活する人達が身につけ、利用することが出来ないならば、持続し定着するするわけもありません。このことに関して、月刊誌「情況」8・9月号(2000年)に「精神保健の課題ーNGO活動の可能性」という文章を書きましたので、是非お読み下さい。
 今年の4月、私たち5人の仲間はこのような思いを共有しつつ、東京に集まり「途上国の精神保健を支えるネットワーク」を結成しました。当面の活動としては、プノンペンで精神障害者が働く食堂の設立、運営と途上国の精神保健ケアシステムのモデルと考えられるキューバの研修を計画しています。
 私は、精神病院に8年勤め、その中で地域での活動の必要性を実感し、3年前より精神障害者と交流する場作りの運動を行ってきました。そして昨年オープンスペース「クラブハウスめぐろ」を立ち上げました。「途上国の精神保健を支えるネットワーク」は、この活動の延長にあるもので、より広いネットワークを目指しています。。 会員となって私たちの活動を支えて下さい。
 皆さんのご支援およびご参加を心から呼びかけます。

途上国の精神保健を支えるネットワー・A href="http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/3428/">N http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/3428/

通信  臨時号 7・20・2000 目黒精神保健を考える会・クラブハウスめぐろ
★★「精神保健という課題ーNGO活動の可能性」という文章を、大賀が月刊誌「情況」8・9月号に書いています。読んで下さい。手に入らない人は、連絡下さい。
 T はじめにーN30を合い言葉に、全世界からシアトルへ
 U 問題提起に代えて
 V 精神保健という課題
 W 途上国支援の在り方
 X カンボジアというフィールド
 Y おわりに 

★★ 7月22日(土) 午後2時より4時半まで、講演会が開かれます。
@ テーマ  水戸事件、そして舞踊劇を通した障害児との関わり
@ お話 大海 日出子さん(水戸市・BR> 場所 下目黒住区センター・レクホール(JR目黒駅8分)参加費 500円
 大海さんは、水戸事件=知的障害者を虐待し続けた「アカス紙器」社長の起こした事件を当初より支援し、不当な刑事弾圧を受けながら最先頭で闘ってきています。その一方で、障害者と健常者とが共に演じる舞踊劇団「創」(生まれる)を主宰し、他に昨年は、障害を持つ人を対象とした自立支援型生活ホーム「創の家テイピ」を立ち上げました。当日は、お話をした上で、ダンスも披露してもらえる予定です。乞う、ご期待 (^_^)

★★ 精神保健研究会 7月24日(月)午後7時より  「クラブハウスめぐろ」にて
 内容 「体験的『障害者考』」・フリートーク
 前回は、清原れい子さんに、上のテーマで問題提起をしてもらいました。今回は、その提起について、討論したいと思います・BR>  障害者にとって自立とは、自活とは、自己決定とは何か? 
@  仕事に就けないのは、障害のあるなしによるのか?
@  ちなみにアメリカのADA法「障害を持つアメリカ国民法」は「障害故に就職の差別はされない」を謳っている。     
★★ 暑気払いに参加しませんか!
@ 7月25日(火)7時より9時頃まで 「クラブハウスめぐろ」にて会費 300円(飲み代は別)
 食べ物、飲み物の持ち込み大歓迎です。

★★ その他の予定
8月4日(金)5日(土) 昭和大の夏祭り・・・バザー出店を予定しています  
9月9日(土)6時半より 第3回心の叫びコンサート 目黒区福祉センターホール
    前売り 1500円 (当日2000円)
出演 まよなかしんや、望月彰、竹内洋子、ヨッシー、the 琉球ネシアンズ 
クラブハウス・めぐろ http://www.alpha-net.ne.jp/users2/chmeguro/


7/21(金) 沖縄奮戦記
7/20(木) 車に乗って、トマさん、ダイゴ君、ヨーコ、アリの4人で嘉手納へ「カデナ基地包囲・人間の鎖」へ行った。そして僕はギターを持って2時・2時半・3時の手をつないで包囲する間の時間に、歌を唄いながら歩いた。カデナ町役場から安保の丘まで歩いた。その間に今まで出会ったいろいろな人達に声をかけてもらった。1回目の「人間の鎖」は今帰仁の村役場の人に混ぜてもらった。2回目は爆音に抗議する人達に混ぜてもらった。3回目は安保の丘で今日、東京から来たトミタさん、キムさん、橋本さん、元木さん、そして先発隊のミッちゃんと一緒に包囲した。
 沖縄に来る前に、東京・駒込の琉球センター「どぅたっち」で講演をしていた平良修(牧師)さんに「またお会いできましたねー」と声をかけてもらってうれしかった。

ようこ アリちゃんがギターを弾きながら唄って先頭を歩き、トマさん、ダイゴ君は手拍子、私は叫びながら、チンドン屋さんのように歩いた。頭がクラクラしたけど、みんなが手を叩いてきいてくれたり、冷たい水を差し入れしてくれたり、「街ニュース」をもらいにきてくれたり、そうしていると、体のだるさは吹っ飛び、どこからか力が湧いてきた。か轤セがた想うように動かず私の手拍子のリズムはむちゃくちゃだったけど・・・
 唄ってあるく力が湧いてきて、楽しくなった。たくさんの人が超えを欠けてくれた。
 みんなが、つながっていくのを、唄いながらあるく中で実感した。
 「基地は、どこにもいらない!」と。
 トマさんの家に居候しているダイゴ君(16歳)・FONT color="#0000ff" face="DFブラッシュSQW5">「沖縄料理店・チャンプルーズ」に入りました! 今日、一緒に「総理へ」を唄いながら、「人間の鎖」に参加しました。その彼の感想です

ダイゴ 「人間の鎖」に参加して。 自分は床田ダイゴといって北海道からやってきました。まず少しだけ自分のことを書きます。自分は4月に沖縄尚学高校に入学しボクシングをやっていました。しかし先輩とのトラブルでやめてしまい、トマさんの家に転がり込んできました。
 トマさんからカデナで「人間の鎖」というのをやると教えてもらい参加しました。参加人数はなんと27000人。こんなに多くの人達が参加していました。
  自分はアリちゃんやヨウコさんと一緒に歌をうたいながら道を歩きました。一緒に手拍子をしてくれる人や、「頑張れ」などと声をかけてくれる人がいました。始めは恥ずかしかったけど、その人達の声やアリちゃんやヨウコさんのガンバル姿を見て自分も手を叩きながら歩きました。
 2時になると、みんなで手をつなぎ「人間の鎖」を作りました。その後2時半・3時と「人間の鎖」を作りました。その間みんなで唄ったり色んな人と出会いました。
 自分が高校を辞めたことを「もったいない」「せっかく入れたのに」などという人もいます。始め自分も戸惑っていましたが、今は胸を張っていえます、自分は正しかったと。だってこんなに素晴らしい事に参加できたし、沖縄のやさしさにも出会えました(続きを読みたいけど、ファクス不調で、ここで終ってます)。


平和実現求め「人間の鎖」/嘉手納基地包囲行動

 21日から始まる沖縄サミットを前に、極東最大の米空軍基地・嘉手納飛行場を「人間の鎖」で包囲する嘉手納基地包囲行動(主催・基地はいらない人間の鎖大実行委員会)が20日午後、実施された。2万7100人(主催者発表)が同基地の周囲約17・4`を人間の鎖で結び、包囲に成功した。基地の重圧に苦しむ沖縄の実情を訴えるとともに、不戦と基地縮小を願い、21世紀の平和発信の拠点として脱皮することを望んでいることを、強く世界にアピールした。また、県内移設で揺れる普天間飛行場代替施設の名護市への建設に対しても「ノー」の意思を表した。
 県内全域と県外やサミットを機に来県したNGO(非政府組織)など、参加者は嘉手納基地周辺に結集。午後2時から三度、手をつないで包囲行動に臨んだ。各地点の結集状況にむらが出たため、午後2時、2時半の包囲は北谷町砂辺付近でつながらず失敗したが、午後3時には全員の手がつながり、嘉手納基地を完全包囲した。嘉手納基地包囲行動は1987年と90年にも実施されているが、今回はサミット開催直前の実施に成功を危ぶむ声もあった。しかし幅広い市民層から、過去最多の2万7000人が結集した。
  終了後、実行委は「県民の意思と共鳴する世界の人々が結んだ『人間の鎖』を、軍隊などあらゆる暴力をもってしても断ち切らせはしない。沖縄をアジア・太平洋の軍事拠点から、平和拠点の島にするまで」と宣言した。


県民大行動実行委メッセージ
私たちは宣言する。戦争のための基地はいらない。
 
私たちは今日、アジア・太平洋の米軍事拠点・嘉手納基地を2万7100人の「人間の鎖」で包囲した。基地の島から、平和の島へ代えるために。
 沖縄戦から55年目の夏、そして戦争の世紀といわれた20世紀最後の年に私たちは21世紀に向けて平和を発信する。
  沖縄を知っていますか・BR>  太平洋戦争では地上戦が行われ、20数万人の尊いいのちが奪われた。人が人でなくなる悲惨で汚辱にまみれた戦争だった・BR>  私たち県民がこの戦争で学んだことは、「戦争を起こすのも人間だが、戦争をなくすことができるのもまた人間だ」ということ・BR>  しかし、戦後の平和の訪れもつかの間、沖縄は米軍事戦略上、太平洋の要石として、巨大な米軍基地を背負わされた・BR>  土地を奪われ、人権を奪われ、いのちをも奪われながら、米軍支配の中、そして祖国・日本復帰後もあわせて半世紀以上にわたりこの異常さはいまだ終わらない。
 終わるどころか、日米両政府は「アジア・太平洋の平和と安定」のためと、この沖縄に新たな基地を建設するという。米海兵隊普天間基地の名護市への代替基地は、運用40年、耐用年数200年のとてつもない基地建設である。半世紀以上におよぶ沖縄県民の人権抑圧の上に、これ以上、私たち県民にどう耐えろというのだろうか。
 私たちは提唱する。サミットでは、軍事によらない人間のための安全保障の確立を議論すること。国と国、地域と地域、人と人が、対話による平和的外交解決の促進を。G8という世界のトップリーダーたちにはその責務がある。
 私たちは、県民の意思とそれに共鳴する世界の人々が結んだ「人間の鎖」を、軍隊などあらゆる暴力をもって断ち切らせはしない。沖縄をアジア・太平洋の軍事拠点の島から、文化ェ息づく平和拠点の島にするまで。
 想像してごらん 基地も戦争もない21世紀を
 2000年7月20日 基地はいらない人間の鎖県民大行動実行委員・/FONT>
(琉球新報7/21より) --------------------------------------------------------------------------------
  ニライカナイ祭り・TOKYO
 
東京も暑い日だった。「街」からは総勢10人が参加。会場の外では先に行っていたヨッシーが一人で唄っていた。遅れて到着した僕たちも早速合流。開場時間が1時間近く遅れたので、たっぷりと唄えました。
 知っている人達が手を振ってくれる、声を掛けに来てくれる。途中、カーミーズ(亀谷さん夫妻)も登場。沖縄民謡や「タンポポ」「花」「沖縄を返せ」などを汗びっしょりになって唄いつづけました。そしてマチに待った開場。本番より僕たちの前座の方が熱かった気がするのはなぜ。


順不同 7/19(水)つづきようこ 辺戸岬→ヤンバルの山の中→名護→人間の鎖・前夜参加祭(那覇)
 今日は沖縄最北端の辺戸岬から「人間の鎖」前夜祭が行われる那覇へ車を走らせた。途中で、ヤンバルや芭蕉布会館、名護市内を通った。元木さん、みっちゃんと参加した前夜祭の会場では市民団体の代表10数名と同じ在米基地によって苦しんでいるプエルトリコや韓国から来た人が記者会見をしていた。そこには7月11日に話を聞いた平良修さんや家島の謝花さんの姿もあった。プエルトリコは国の東・西に基地があり、人々は安心してくらせないという。韓国では今月16日に行われた。平和を願う満月祭りで3人が拘束され3人が逮捕されたという。会場は民衆の怒りでいっぱいだった。
 会見の後は、琉球の文化を食事をしながら楽しめる交流会となった。本土で知りあった人、降りで知り合った人がたくさんいた。6月の衆議院選の時、沖縄料理店・チャンプルーズでゲリラライブをやったことで私たちに声をかけてくれた人もいた。新しくいろんな人と出逢えた。
 最後は、まよなかしんやさんの唄。そして三線に合わせてカチャーシーを踊り、池宮城弁護士の話(明日は逮捕されないため腕を組んで警察や米軍と話をすること)があり、「ガンバロー! オー!」という声をあげて会を終えた。明日が楽しみ! という思い名護へ帰った。


7/20(木)  7/16〜19日分一挙公開く
 「コバルト荘」を出て、バスムに乗り名護に向かう。バスを間違え、東海岸から西海岸へ大回りする事に。今日、瀬嵩では昼間はジュゴン・シンポジウムが、夜は「満月祭り」が行われる。僕は満月祭りの準備を手伝いに行った。手伝ってる若者がいっぱい居た。琉大の学生グループや道で拾われてきた人、ヤンバルを旅行中の人。祭りは明るいうちから始まり、それぞれ個性のある人達がそれぞれの平和の想いを唄っていった。陽が落ち満月が夜空にくつきり浮かび、人々も歌に合わせて踊りはじめる。皆既月食が始まり、満月が欠けておおわれていく過程をみんなで見つめる。
 途中、韓国の満月祭り会場で6人の逮捕者が出たと発表がある。平和を祈る祭りをする事が、そんなに不都合な事なのか。最後、喜納昌吉が「花」を唄った。
 住民の一人が最後に・/B>u私が生きている限り、辺野古に基地は作らせません
僕は少し会場から離れて、その叫びを聞いていた。獣の遠吠えのように、瀬嵩ヌ浜にその声が響いた。「自分の目の黒いうちは、基地は作らせない」という一人の人間の叫びが、この平和のまつりをしめくくった。

「平和」の文字輝く/名護市で満月まつり

写真説明:満月を背に「平和の火」に光をともし、平和を願う子どもたち=16日夜、名護市瀬嵩の浜

【名護】満月に平和の祈りを―。沖縄サミット首脳会合開催を前に米軍普天間飛行場代替施設の建設反対と平和な未来を訴える第二回満月まつり(主催・同実行委員会)が16日夜、名護市瀬嵩の浜で行われた。同日から17日にかけて今世紀最後の皆既月食も見られるとあって、天文ファンも含め県内外から多くの観客が詰め掛けた。 
  まつりでは県内外のアーティストらのコンサートやパフォーマンスを通して、基地のない平和な沖縄の実現に心を一つにした。会場には広島県から運ばれた原爆の火が灯され、月が照らす海岸に「平和」の光文字が輝いた。 
  同まつりは韓国の梅香里(メンヒャリ)村、広島県、東京都、神奈川県、北海道でも世界の平和を願う市民団体が主催して同時刻に行われた。舞台では、本土で活躍するソウルフラワー・ユニオンが迫力のあるステージを展開したほか、汀間区婦人会による琉舞などで観客を喜ばせた。 
  主催者共同代表の高江洲あやのさんはあいさつで、瀬嵩の海をながめながら「こんなきれいな海に基地を造ろうとしている」と、新たな基地建設の動きを批判。「きょうは満月を一つの接点に、みんなの平和への思いをひとつにしよう」と訴えた。(琉球新報7/17)

7/17(月) ようこ
・本部の海洋博公園へジュゴンの友達のマナティを見に行く。途中、どろんこ保育園の見学。
・本部→読谷→那覇まで、ようこの運転の車で移動。みっちゃんは、憧れのうたごえペンション「まーみなー」へ泊。あり・ようこは車の中で寝る。

 昨日の 「満月まつり」が終って、トマさん(アイヌ人の友達)家へ行ったのは夜中の3時すぎ。3人はザコ寝。翌朝、起きてみんな(4人)で食事。トマさんの作ったゴーヤー・チャンプルーとアリちゃんの作ったブタの頭の煮物。おいしかった。みんなで食べるとおいしい!
 トマさんの家は赤瓦だ。ス・スゴイ!10日前からトマさん家に居候している、だいご君(16歳)を瀬嵩ヌ浜に探しに行くがいないので4人で出かける。トマさんの案内で、サミットに反対している自動車整備屋さん(ここのオジさんは業界からどんな圧力がかかっても一人で反対を貫いている)や、保育園(ここの園長もサミット反対)につれていってもらう。
 保育園は山の中にあり、子供たちはとーってもたくましく人なつっこかった。園長は留守だったけど、保母さんと話した。カレンダーをもらった。
 その後、スコールのような雨が降る中、水族館へいった。マナティを見た。のんびり・のんびりエサを食べたり、うんちをしたりしんがら、5分に1回、浮かび上がって呼吸する。ジュゴンはマナティより、少し活動的らしい。マナティをみながらジュゴンを想像した。
 そして本部を出て、ミッちゃんを送りに読谷へ。満月まつりで会沢芽美さんと会った時、17日なら空いているということなので、ミッちゃんはもう一度「まーみなー」へ泊まることになった(翌日の夕方に迎えに行くと、買い物に行っている芽美さんの留守を守って電話番をしているミッちゃんがいた!)。

 読谷へ行く途中、許田で夕食。ここでトマさんが、則子さんへウッチンを買ってくれる。途中読谷の大添公民館へ。ここは金城実と地元のおじさん7人(通称七人の侍)の作った一角獣の像があった。近寄ると今にも荒い息をしそうだった。近くにいたおじさんが教えてくれた。「この一角獣のお腹の中にはお酒が入っている。何年かたって、みんなで飲むんだ。でも蒸発してるかなー」この公民館は何年かかけて地元の人たちで作ったらしい。読谷の人たちの精神というか意識を感じる。何でもいいなりにならない!! そのせいか分からないが読谷の警備が一番ものものしい。すごく威圧的だ。
 
 ここで車を代えて、3人でコバルト荘へ。与論・田中さんが来ていて11時すぎまで話しをした。トマさんとは別れ、ようこの運転でアリちゃんと2人名護へ向かう。夜の高速には警官はいなかった。

7月18日(火)j
 朝起きてトマさんが「メシ食う前に一泳ぎするか」 みんなで浜へ向かった。トマ・アリ・ヨーコ・だいご君でしばらく海沿いに歩きつづけ「あの島まで泳いでいくぞ」 いきなり数百メーター向こうの島まで泳いで行く事になった。みんな、そんな言葉にビクともせずスイスイ泳いで行く。僕はシュノーケルと水中メガネをかりて、泳ぎ方を思い出しながら泳いだ。
 途中シュノーケルに水が入り、水の出し方が分からず、むせながら、水中メガネに入る海水がコンタクトレンズの入った眼にしみつつ、半分まで来たところで「生きてあの島にたどりつけるだろうか」・・・と思った。島が近づくにつれ、海中には水族館にいるような熱帯魚みたいな魚や、食べられそうな魚が群れをなして泳いでいた。島に着くとみんなカキをとって食べていた。僕は一人で泳ぐ練習をした。帰りは潮が引き、海も浅くて早く帰れた。

ヨーコは前の日に見たマナティになったつもりで泳いでいたそうだ。だからゴーグルも足ひれもつけずにプカプカ浮かんでいた・BR>  帰って、前日に僕が作ったブタの頭の煮物にトマさんがご飯をぶっ込んで雑炊で朝ごはん。その後、居候をしてるダイゴ君を市役所に送る。途中、許田で今帰仁(なきじん)産おっぱ牛乳ソフトクリームを食べて土産のサーターアンダギーを買って、ミッちゃんを迎えに「まーみなー」へ向かった。ミッちゃんは一人で行動したいらしくこれからは一人で行動することに。車で最北端の辺戸岬に向かう。そこにはトマさんが教えてくれた復帰運動の碑がある。沖縄の本土復帰運動は、反吐岬から広がっていった。

7月19日(水)
 祖国復帰闘争碑(辺戸岬)

  
全国のそして全世界の友人へ贈る
 吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
  権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ 
  打ち寄せる  波涛の響きを聞け
  戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫び
  「鉄の暴風」やみ 平和のおとずれを信じた沖縄県民  東京占領に引き続き、1952年4月28日
  サンフランシスコ「平和」条約第3条により
  屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれ
  米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙し
  祖国日本は海の彼方に遠く沖縄県民の声は空しく消え
  われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬され
  しかし独立と平和闘う世界の人々との連帯であることを信じ
  全国民に呼びかけ、全世界の人々に訴える

  見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
  27度線を断つ小舟は船出し
  舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ

 今、踏まえている 土こそ
 辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の土地なのだ


 1972年5月15日 沖縄の祖国復帰は実現した
 しかし県民の平和の願いは叶えられず
 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された

 しかるが故に この碑は
 喜びを表明するためにあるのでもない
 ましてや勝利を記念するためにあるのでもない

 闘いを振りかえり 大衆が信じ合い
自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり

人類が永遠に生存し
生きとし 生けるものが 自然の摂理の下
生きながら得るために 警鐘を鳴さんとしてある


 ここからは、与論・田中さんの住んでいる与論島も見える。田中さんの子供の頃、与論島(鹿児島県)と辺戸岬で火を灯し、祖国復帰を願ったという。
 辺戸岬は名護からさらに2時間来たに行く。途中の風景はまさに「ヤンバル」だ。
 昨日初めて「練馬ナンバー」の護送車をみる。この間、南へ北へめまぐるしくくるまで動き回る・BR>  サミットでどこが使われるか、警備のすごさはすぐ分かる。ヤンバルは検問もない。読谷では側溝を一枚一枚はがしていた・BR>
ということで、あり・ようこは只今、沖縄最北端・辺戸岬でレポートを書いています。ありちゃんは、岬そばを食べています・・・おーっ、今、この辺戸岬にも警察のバンが見回りに来たーっ。でも、すぐ、どこかへ行った。

 今日は、まよなかしんやさんから教えてもらった、
人間の鎖・前夜祭へ行きます。
 それでは、みなさん。。。。。


きょう「人間の鎖」嘉手納基地包囲へ
 20日、午前、ミッちゃんに電話したら、今、那覇空港で元木さんと後発隊の到着を待っている。警備陣がウヨウヨしてるとのこと
 基地の島・沖縄を軍事拠点から平和発信の拠点に変えていく県民の願いをアピールするため、米軍嘉手納飛行場を「人間の鎖」で包囲する嘉手納基地包囲行動が、午後2時~実施される。「基地のない平和な沖縄」の実現を求める基地行動は5回目。今回は25000人以上の参加により、米の極東最大の戦略拠点の周囲17.4キロを囲い込むことをレ指し、サミット開催で注目が集まる沖縄から平和のメッセージを世界に発信する。・・・基地の整理縮小・撤去を求める市民レベルの行動のハイライト。国内外からも強い関心を集めそうだ。・・・県外や国外から予定される1100人の参加者も19日までに続々と沖縄入りした。(琉球新報7.20)

 彼らは午後2時からの「カデナ基地・人間の鎖」包囲行動に参加します・BR>
 東京残留部隊は、午後5時から日比谷野外音楽堂で、嘉手納の闘いと連帯して開かれる「ニライカナイ祭り」(すべての武器を楽器に、すべての基地を花園に、すべての人の心に花を 戦争よりも祭りを)出演・喜納昌吉、朴保バンド、沖縄、アイヌ、在日朝鮮韓国、アメリカインディアン他。勿論、ヨッシーと沖縄料理店チャンプルーズは招待されていないけど、開演前、会場の外で唄って来まーす。 

7/19(水) エバッチからのメール

オキナワ、 闘闘闘闘闘闘闘闘!!!!!
無事にかえってきてね!!!
わぅぉーーーーーんんんんんんんん!!!!
先発隊は、どうしているのかなぁーーーー・/FONT>
            えばっちより


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★・BR> 前進友の会・やすらぎの里・BR> http://www1.plala.or.jp/akahane/zensin@mue.biglobe.ne.jp
http://www2.plala.or.jp/moro/home.html
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★・/P>


チャンプルー日誌
 アリちゃんたちがいない間、チャンプルーは、ナカチさん、ネコさん、仁君たちがフロアーで頑張っています。・FONT size="-1">
ヨッシーと沖縄料理店チャンプルーズは、月曜日「とめよう戦争への道!百万人署名運動」の全国キャラバンの最終地点、杉並・阿佐ヶ谷駅前での街頭宣伝の冒頭と最後に唄ってきました沖縄派遣隊が居なくても、ヨッシー・ミヤちゃん・ユッ君・ハネやんの4人で叫んできました。
 交番では警察官が右往左往・戦々恐々としてました。駅出口にはたくさんの若者たちが「何だ・何だ!」と人だかり。

沖縄派遣第二陣は20日、東京「病者」・地域Hotラインの代表を中心に「街」からはトミタさんが出発します。
闘って・闘って・闘いまくれーっ!


2000年7月16日 在留特別許可一斉行動速報/ NO.18
●46,101名の賛同署名、本当にありがとうございました 昨年11月から「21名に日本の暮らしを実行委員会」の主催でスタートした27万人署名は6月11日に最終集約日を迎えました。集約した結果、12月の第1回集約から6月 11日までに40,801名分が集まっており、すでに提出した第1回集約分5,300名分を合わせると46,101名分の署名をいただいたことになります。40,801名分の署名は7月 11日、移住連の渡辺英俊事務局長のはからいで、福島瑞穂議員、竹村泰子議員、江田五月議員の同席のもと、町田入国管理局局長に直接手渡すことができました。 短い期間の間に、これほどまでに多くのかたのご賛同をいただいたのも、全国の皆さまのご協力とご支援のおかげです。心より感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

●不許可の3家族、再審、裁判へ  6月30日にAPFSから在留特別許可を求めて出頭していた5家族のうち、4家族が不許可になったのはすでにお伝えした通りです。このうち1家族(イランKH.Mさん一家3人)は、帰国の意志を固め、7月17日に帰国することになりました。入管に収容されていた父親は、帰国準備のため、7月13日、仮放免が認められました。帰国準備のためとはいえ、在特不許可で仮放免が認められたのは異例のことです。また、残りの3家族は今後、再審もしくは裁判にて争っていく気持ちを固めています。この3家族も父親が収容中ではありますが、6月30日に退去強制令が出た段階で申請した仮放免許可の結果が7月16日現在、保留となったままです。つまり、処分保留のまま2週間以上に渡り収容されている状態ということです。2月に不許可になったビルマ人Mさん一家の父親の仮放免不許可が即日決定されたことと比較すると、入管側に「迷い」があるとも受け取れる処遇です。今後はこの3人の父親の仮放免を求めると同時に、再審の申し立てをするかもしくは即裁判に持ち込むかを弁護団と共に検討していく予定です。

●7家族、1個人の計26名が東京入国管理局に出頭 7月12日と13日の2日間にわたってAPFSから7家族1個人の計26名が在特を求めて、東京入管に出頭しました。このうち半数は18歳以下の未成年です。全員、収容されることなく無事帰宅し、今後は在宅での取り調べを受けることになりました。 出頭者の国籍、家族構成は以下の通りです。 S.H.さん一家:父親(39歳)母親(38歳)長女(15歳)長男(14歳)次男(10歳) 1991年一家5人で入国、短期滞在。【国籍:イラン・イスラム共和国】 M.S.さん一家:父親(39歳)母親(33歳)長女(4歳)長男(6歳)次女(1歳)父1991年4月入国、母と長女1991年10月入国、短期滞在。長男と次女日本生まれ。【国籍:イラン・イスラム共和国】 A.S.さん一家:父親(49歳)母親(39歳)長男(15歳)次男(11歳)父1986年入国、母1988年入国、長男1990年入国、短期滞在。次男日本生まれ。【国籍:フィリピン】 Fさん一家:父親(53歳)母親(35歳)長女(12歳)長男(5歳)父1990年、母と長女 1991年入国、短期滞在。長男日本生まれ。【国籍:ペルー】 A.L.さん一家:父親(55歳)母親(52歳)三女(18歳)1990年一家で入国、短期滞在。【国籍:ビルマ】 M.S.さん一家:母(37歳)長男(16歳)母1992年入国、特定活動、1993年より超過滞在。長男1995年入国、短期滞在。【国籍:コロンビア】 J.M.さん一家:父親(44歳)、長女(18歳)父1988年入国、日本語学校生。長女 1991年入国、家族滞在。1992年より超過滞在。【国籍:中華人民共和国】 N.U.さん:(40歳)1990年入国、短期滞在。【国籍:バングラデシュ人民共和国】

  出頭者の詳しいプロフィールはAPFSのHP・A href="http://www.jca.apc.org/apfs/index.html">ihttp://www.jca.apc.org/apfs/index.html)に掲載しましたのでご参照ください。
 これまでの出頭者の国籍がイラン中心であったのに比較すると、今回の出頭者は国籍が7カ国と多岐に及んでおります。家族構成や子どもの就学状況、日本での経済状態などの家庭環境も各家庭によって大きく異なっています。そういった意味では現段階で見えてきた“基準”らしきものが適用されていくのか、それとも個別の環境によって結果になんらかの差が出るのか、26名の行方を注意深く見守っていかなければなりません。  26名の経過につきましては今後も随時お知らせしていきます。

●集団出頭には一区切りをつけ、今後は個別の出頭を考慮。
 7月12日、13日の出頭で、APFSの集団出頭は3回目となりますが、昨年9月1日の出頭者が2月に、12月の出頭者が6月に裁決を渡されたことで、法務省側から一定の “基準”らしきものが提示されたといえると思います。 多くの方々から「無謀な挑戦」と表現された昨年9月1日の出頭当時のことを思いますと、5家族の許可を受け取れたこと、さらには滞在年数10年前後で子どもの年齢が中学生くらいの家族なら在留特別許可が認められる可能性が出てきたという新しい “基準”らしきものが法務省から提示されたことは今回の行動の成果であるといえるでしょう。  APFSには現在も日本で生まれたあるいは育った子どもの教育の継続などを理由とし、家族単位で在留特別許可を求める相談が相次いでいますが、集団出頭は今回を最後とし、今後は相談者の状況を見ながら個別に対応していきたいと考えています。 もちろん、在留特別許可一斉行動が終わったわけではなく、2月に不許可になった5名の裁判の支援、6月に不許可になった3家族の支援、さらには7月に出頭した7家族1個人の支援は今後もこれまで同様続けていきます。 7月24日には2月に不許可になったMさん一家の第2回公判が、引き続き、単身者2名の裁判が東京地裁で2時から開かれます。 お時間がありましたら、ぜひとも傍聴に来ていただけますようお願い申し上げます。
**************夏の一時カンパのお願い**************
 APFSの活動も13年目を迎えワした。当事者である移住労働者と共に様々活動を続けてきましたが、今後、より一層活発な活動とそれを支える組織体制の強化のために、支援者の皆さまに夏の一時カンパをお願いしております。ご協力お願いいたします。   
  振込先  郵便振替の場合 00180‐1‐79158  APFS
  現金書留の場合 東京都板橋区大山東町24-16 APFS ASIAN PEOPLE'S FRIENDSHIP SOCIETY(A.P.F.S.) 東京都板橋区大山東町24-16。 03-3964-8739 ・03-3579-0197  http://www.jca.apc.org/apfs/index.html  mailto:http://www1.plala.or.jp/akahane/apfs@jca.apc.org 
7/18(火) 14日、「チャンプルー」で『東京「病者」・地域Hotライン』のミーティングが持たれ、沖縄サミット反対行動の時にまくビラの草案作りをしました。沖縄へはキムさん(新松橋亭同人)、多田さん(ほっとスペース八王子)、元木さん(遊人永屋こどく館)、富田さん(オープンスペース街)他が行きます。


基地を押しつけようとたくらむ、 沖縄サミットに反対!

 沖縄からの米軍基地撤去、沖縄・アジアすべての人の平和を願う皆さん、私たちは『東京「病者」・地域HOTライン』という、精神病者の患者会・作業所などを中心とする、東京の連合体です。

 私たち精神病者は、このかん、症状をかかえ、日々の生活をこなしながら、同時に、精神病者にかけられてくる保安処分をはじめとする攻撃や福祉切り捨てとたたかい、また精神「医療」の欠陥にたいし、声をあげてきました。そして病者が街であたりまえの暮らしができる社会。差別と抑圧のない人が人として大切にされる世をめざし、日々を暮らしてきました。

 米兵による少女暴行事件に端を発するこのかんの反基地闘争の盛り上がりに対して、私たち東京の精神病者もまた、同じく差別され、抑圧される立場の者として、深い共感の思いをもってきました。

 普天間基地の返還の代償として、名護市の辺野古に米軍ヘリポートをつくろうという策動に対しては、どうしてもこれを許してはならない、という気持ちでおります。

 そして今回、サミットを沖縄で開催することによって、基地反対闘争の圧殺をもくろみ、「地域振興」と銘打った札ビラでほおをたたくような、結局は「本土」資本のためにしかならないアメとムチには、とくに反対しなければならないと考えます。サミットは沖縄に平和をもたらすものではありません。米国を中心とした金持ち国[先進工業国]が沖縄の基地を強化して、アジアの国を武力で恫喝しながら、自分たちの思いどおりに貧しい国の環境を破壊して、金をまきあげようと相談する会議です。

 沖縄民衆の何年にもわたる受難の歴史。なかでも第二次世界大戦では唯一の国内戦を経験し、多くの民衆の命がうばわれました。その沖縄にまたしても新たな歴史の苦渋を味合わせようという策動に私たちは深い憤りをもつとともに、沖縄の民衆への熱い連帯の意をもつものであります。

 現在も在日米軍基地の75%が日本の0.6%の面積しかない沖縄におしつけられています。そのような中では、基地による騒音や悪環境により、「本土」より高い割合で精神病の発症者がいるとききます。基地のある街では精神病者をはじめ、だれも安心して暮らすことなど、できないのです。 こうした情勢にかんがみ、私たち「本土」の精神病者が軍隊も基地もいらないありかたをめざして、平和を希求する沖縄民衆との熱い連帯の想いをもってここにいることを、どうかお知りおきください。

 沖縄の基地強化をめざすサミットに反対し、すべての軍事基地がなくなり、世界に平和が訪れるまで、沖縄−「本土」−アジア−世界を結ぶ闘いをやりぬきましょう。

 2000年7月19日 『東京「病者」・地域HOTライン』新松橋亭同人,自由広場・武蔵関,ほっとスペース八王子有志,オープンスペース街,遊人永屋・こどく館編集室,多田道夫(ほっとスペース八王子),広瀬隆士(ゴキブリ従事者の会),脇坂令(遊人永屋・こどく館),元木一雅(遊人永屋・こどく館編集室)

●連絡先
遊人永屋・こどく館編集室 TEL・FAX 03-3676-8745/携帯 090-2331-1423  東京都江戸川区江戸川3-12-14 コーポ椎名102
オープンスペース街 TEL・FAX 03-3928-1378



7/17(月) 7/15(金)/3日目   
 会沢芽美(めみ)さんに読谷を案内してもらう。チビチリガマ、読谷村役場、トリイステーション(ぞうのおり)。お昼過ぎ、バスに乗り、北谷(ちゃたん)で昼食。5時〜宜野湾海浜公園にて「米兵わいせつ事件抗議 県民総決起大会」参加夕食後、海瀬渡豊のライブハウスへ。コバルト荘泊 歌声ペンション「まーみなー」にて朝食後、めみさんが忙しい中、読谷を案内してくれた。(この日は、お昼のランチの予約が入っていて、夜も宿泊で満室!)だから、その準備があって、芽美さんは大忙し!!鼻歌を歌いながら仕事をしている芽美さんが言う、「私、今、カレーを練りながらかんがえたんだけど、時間が少しあるから読谷をまわらない?」。

 まずはチビチリガマ。この洞窟には100人以上の人が隠れていて、80人あまりの人が死んだ。同じ日に別のガマでは1000人の人が、一人も死なず、捕虜となって、一番早い戦後を迎えた。この違いは何なのか。
 芽美さんは教育のあり方について語る。一人も死なずにすんだガマにはハワイから帰ってきた人がいて、日本の皇民化教育を受けていない人がいた。その人たちの中には沖縄の教え「命どぅ宝(命こそ宝)」が自然にあった。その人たちの訴えと交渉でみんなガマから出てきた。ところが、チビチリガマの方は、「アメリカは鬼のように残虐だ、何をするかわからない、生き延びるのは恥で、天皇のために死ぬのが誇りだ」をいう日本の戦前の教育が人々に強制されていた。「きれいな体のままお母さんの手で私を殺して」という18歳の女性の声が口火をきり、みんなつぎつぎと自決をはじめた。芽美さんは絶対にこんな教育まちがってる、と熱く語る。

 次は読谷村役場をみてほしいと連れて行ってくれる。そこには入り口に堂々と、憲法9条の碑があった。「これが入り口にあるのはここだけ!こんなすばらしい憲法がある!」と芽美さんは言った。そのあと、読谷では、基地の中に既成事実で文化会館などを建てていったり、金網を作らせなかったこと、それによって、この辺が近いうちに返還されることをおしえてくれた。

 滑走路を車で走った。原爆を落とした米軍機は、ここ読谷で給油をしていった。サミットの旗について、「読谷方式」というのがある。読谷にはEUとイタリア、ドイツが泊まる。その国の旗を先に持ってきて順番を変えた。国や県は文句を言う。読谷の村長は「私たちは守礼の国の民ですから、お迎えする方に失礼にならないようにしているのです」ときりかえす。「爽快ね!!! わたしはこういうところが気に入って、読谷にいるの」と芽美さんは言った。(読谷には、とてもたくさんの護送車と警官がいた。30分のうちに6台は見た。北九州ナンバー、福岡ナンバー、だった。心の中で「あんた達九州に帰りー」と思った。) そのあと、少し休み、若者の町、北谷で昼食。たこライスを食べた。(以上、ようこ)

 宜野湾海浜公園に着くと、人々が次々と来ていた。入り口ではビラを配ったり署名を集めてる人がいっぱいいた。成田さん(民宿「海と風の宿」)がジュゴンの署名を集めていたので、署名用紙をもらって、署名集めを手伝った。みんな自ら近づいてきて、署名してくれた。この現状を変えたいという人々があつまってるなと思った。子連れの若いお母さんは、親戚家族全員の名前を書いてくれた。

 集会では、国会議員、県議会議員の人たちが、壇上でそれぞれしゃべった。ブーイングがあったけど、自民党も来てた。「いったいいつまでこんな集会をし続けるのか。」本当に基地をなくしていかなければならないと訴えていた。

 コバルト荘に戻って、ここで出会ったおじさん2人とてるやさんと、海勢頭豊さんがいるエルパピリオンというお店に飲みに行った。とても高級そうなお店だった。月桃の花とか生演奏を聞いた。みんなで音楽にのって踊った。
 集会のあと、バス亭で待ってたばっちゃんと、ここはバスが来ないねと話が始まって、いちゃりばちょーでー(出会ったら兄弟)といって、ゆんたく(話)しながら、バスが来るバス停まで歩いた。県知事がしっかりしてないから、手紙を出さなきゃならんと怒っていた。沖縄で困った事があったら、(瀬長)亀次郎の弟子だと言えと、アドバイスをくれた。そばを食べなさいよと、500円くれた。そのあとそれでそばを食べた。 

16日、沖縄名護で、満月祭り higegorilla
 14日の石原やめろの集会では、会場の出口でヨッシーさんが熱唱していましたね。素敵でした。もうご存知の方も多いと思われますが、16日、沖縄名護で、満月祭りがあります。
李政美・趙博も出演します。 詳しくは、 http://www.jca.ax.apc.org/~higa/OKINAWA/heli_NO%21/maturi0716.html をご覧下さい。
李政美(イ・ヂョンミ)さんのホームページはhttp://www.bekkoame.ne.jp/~a-nagae/idyonmi.index.html  

14日の石原やめろの集会には、「街」からもたくさん行きました。詳しくは今度。 沖縄名護の「満月祭り」にはアリちゃんたちも参加したはずです。 15日の「チャンプルー」は、開店以来の大盛況。折角来てもらったのに、数組の人たちに帰ってもらうほど。空いている日に来てくれればいいのに(T_T)。仲地さん、ハネやんのお姉さんも則子さんの手伝いをしてくれました m(__)m  ヨッシーも、アリちゃんも居ないので、代わりにユッ君がライブをして大好評。そこに旗揚げのために練習を終えた「内木組」9人が登場。そこにヨッシーも登場。饗宴は深夜まで続きました。アー、疲れた。

7/16(土)/4日目 満月まつり・速報  
16日の満月まつりは沖縄・名護・瀬嵩ヌ浜を中心に全国各地・韓国でも開かれました。「チャンプルー」でもセブンスローズ、ヨッシーと沖縄料理店チャンプルーズ、カーミーズが参加して開きました。

 途中、沖縄派遣隊から電話が入った。「只今、喜名昌吉の演奏中、凄い雨です」新曲「サミットへ行こう」(!?)を唄ってます。♪サミットをぶっ潰しに行こう・・・というてな歌詞だとか。 「韓国の会場では、警察によって6名が不当逮捕されました」次に沖縄世文庫を放火されて駒込に再建なった「琉球センター・どぅたっち」主催の満月まつり会場から、島袋陽子さんから電話。「近くの公園で満月を見ながらやっています。こちらは、80名が集まって盛り上がってます」 同じ満月を見ながら、御万人(ウマンチュ)が「軍隊も基地もない、ジュゴンが安心して暮らせる平和な世を作ろう」と心を一つにした瞬間です。詳細は、またファクスがくると思いますが、イジョンミさんの所のヒゲゴリラさんが速報を書いているので、無断借用します。
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 ついさっき、沖縄名護の浜辺の李政美から連絡あり。すごい月だそうです。 8時5分から出番。 「祈り」「満月の夜」「密陽アリラン」「オギヤディア」の4曲を歌うそうです。以上、沖縄速報でした。

沖縄速報2。 10時半頃、終演。 フィナーレは、大変な盛り上がりだったそうです。現在は、現場の浜辺でバーベキューをしながら、打ち上げ中。電話口から、まよなかしんやさんの大きな声が聞こえてきました。打ち上げとかたしを終えてから、ミュージシャンは一同、読谷村の宿泊所に移動し、二次会を行うそうです。帰京は、明日の深夜になるとのこと。

沖縄速報3 ミュージシャンは数台の車に分乗して、読谷村へ。李政美は、車の運転をさせられたそうです。今回の沖縄行きには、長野熱烈な女性ファンが、羽田から完全張り付きで同行。もしかしたら、信州マネジャーになってくれるかも知れません。催しの詳細は、よく分かりませんが、2部構成。 1部の最後が趙博。 2部の頭にソウルフラワー。李政美。寿。そしてトリが喜納昌吉で、その後は、全員参加のフィナーレといった感じだったらしいです。フィナーレでは、アリランも熱唱されたそうです。お客さんは、1,000人。 例のサミットなど、足元にも及ばない、熱いコンサートだったようです。

もちろん、以前、あのねのねの清水国明さんのバックでギターを弾いていた小室某とかいう金髪青年が曲を書き、ナムロなんとかという柄の悪そうな茶髪のネエちゃんが歌っている、毒にも薬にもならない噴飯ものの歌("Ever End[常に終末]"でしたっけ)が歌われることになるイベントなぞ、足元にも及ばない、意味のあるイベントだったに違いない。李政美(イ・ヂョンミ)さんのホームページはhttp://www.bekkoame.ne.jp/~a-nagae/idyonmi.index.html


7/16(日)沖縄奮戦記 その1
7/13(木)  午前9:30チャンプルーを出る。 空港で食事をとり、ヒコーキに乗る。突然、那覇空港で事故が起きたてのアナウンス。自衛隊機が(T4)がオーバーランしたとの事。30分離陸が遅れヒコーキの中で待った。
 那覇に着いて「コバルト荘」に荷物を置き、牧志公設市場で「チャンプルー」で使う料理材料を仕入れ・送った。
 晩ご飯を食べに、首里の「ザンギリス」(昼間は共同作業所「あごら」)へ。Sさんという人が週刊「街ニュース」をもって話しかけてくれ、テーブルを囲んで小さな交流会が始まった。
 帰ると「コバルト荘」には照屋さんと2人のおじさんが待っていた。このおじさんは、毎月1回満月の日沖縄に来て、ジュゴンの写真を撮るためジュゴンの丘に行くという。みんなで夜まで飲んだ。

 7/14(金)  午前、「コバルト荘」で照屋さんたちと話しをする。久良木さんのこと、カデナ基地包囲のことetc。午後、照屋さんの息子のおさむさんの案内で北谷、読谷(安保の丘、象のオリ、やちむんの里、残波岬)を回る。夕方、うたごえペンション「まーみなー」へ泊。夕食はバーベキュー。アリちゃん大よろこび!夕焼けよりも肉!!

みちこ 今日はおさむさんが来るまで色々な所を案内してくださり、宿泊場所の「まーみなー」(読谷村)まで送ってくれました。
 「安保の丘」では、離着陸の練習をする米軍の戦闘機がすごい迫力で見る事ができました。 「象のオリ」はサミットが終わるまで見学禁止という立て看板が立ててありました。 「やちむんの里」では登り窯を見ました。その後「まーみなー」に来る直前まで海岸でキャッチボールをしたり、ひと泳ぎ! 私は泳げないので波打ち際でバタ足、あとは浅い所で空に向かって浮かんでいました。とても楽しかったです。
 追加2、これから会沢芽美さんのライブがはじまります。ウレシイ!! 会沢さんのライブのあと、会沢さんのリクエストにより、アリちゃんが「介護保っ険」と「都知事様」を唄いました。地元の幼稚園の先生が6名、聴いてくれました。ミッちゃんは、たまらなくなって踊りました。会沢さんは「都知事様」が好きなのだそうです。

追加(ようこ)那覇から読谷まで、道路や海岸、いたるところにパトカーや護送車、警官がいる。鹿児島ナンバー、広島、新潟ナンバーのパトカーを見た。
 なれぬ暑さの中、大変そう。シーサーボックス(簡易交番ボックス)はまだみてませんが、とにかく警官が多い! ここで泳ごう! と行った海岸にも5人の警官がいた。おさむさんは「ここ、やめましょうか」と言ってくれたが、私達は気にせず彼らを横目に海水浴をたのしむ!!他県ナンバー、レンタカーのワンボックス車は検問で止められまーす。
 明日は、米兵による少女ワイセツ抗議集会です。「コバルト荘」に泊まります。




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