作業所の背景となる精神科医療の歴史
博愛会病院 精神科医長  塚 崎 直 樹

1、精神科医療の位置

 身近な所に精神科疾患の患者がいない人にとって、精神科医療というものはとても特殊なものにみえるだろう。自分がいつかそういう病院に行くとか、家族の内にそういう病気の人が出る可能性があるということは考えにくいだろう。しかし、精神科疾患の中でも、長期の治療を必要とすることの多い精神分裂病の出現率は1/50〜1/200人と言われているので、どんな人でも調べてみると、小学校の同級生や中高生の同級生の1人ぐらいには、精神科疾患に苦しんでいる友達がいることになる。自分の一族でも、3〜4代をさかのぼったり、子孫をたどったりして見ると、たいがい1人ぐらいはそういう人がいるということになるだろう。また、町内の内に1人ぐらいはそういう患者がいると考えてもよいだろう。つまり精神科の病気というのは本当はありふれたものなのだ。ところが実際に、自分の親友であるとか、人生の経路をよく知っている同級生とかに、そういう人が現れないと、身近に感じられないだろう。たとえ友人にそういう人がいても、入院したり、休学、留年とかがはさまると自然に関係が疎遠となって、関心が薄れていく。また、一度精神科疾患を患ってしまうと、内気な傾向が強くなるので、影がうすくなって、目だたなくなる。そのために精神科疾患の患者というのは、見えにくい存在なのだ。

 現在の日本の病院のベットの数の内、精神科のベットはどれくらいあるという印象があるだろうか。大概のひとは1/10〜1/20と答えるだろう。しかし、実状は全体のおよそ1/4なのである。日本の国全体の入院患者の4人に1人は精神科に入院しているのである。この数は極めて多いものだ。しかし、精神科の入院患者がそんなに多いと思われないのは何故だろうか。実は精神科の入院医療費は全体の6%程度と言われている。医療費だけで考えると、全体の1/10〜1/20という印象は間違っていないのである。医療というものは、先端の医療技術が開発されているところほど、高額の医療費を必要とする。日頃の新聞紙面をにぎわすような新しい治療法や実験的な分野のことを考えて見ればわかる。精神科の医療費が低いということは、精神科の治療が、医療技術の日進月歩の恩恵をあまりうけていないということである。精神科の医療費全体は入院費に大きく傾いている。1つの精神病院の収入は、患者にどんな治療をしてみても、それほどのびず、入院患者の数に大きく依存してきた。言い換えてみると、精神科の医療というものが、ただ入院させておくという傾向のものであったのである。

 これらの事実は、精神科疾患の患者があまり目だたず、その医療の実情についても知られることがなかったことと関連しているだろう。では何故、精神科医療が現実以上に過小評価され、注目されてこなかったのだろうか。その理由として、何よりも精神疾患に対する差別意識を指摘しなければならない。

 差別によって精神科疾患の存在は無視されてきた。無視されることによって一層差別を生んできた。そのために、必要な対策は練られず、資金も回されなかった。人材も資金もなければ、問題の解決はなされない。そのため徒労感、絶望が生まれ、一層の差別や無視につながっていく。精神科疾患に罹患した人々は、自分の病気を隠そうとする。また療養を確保するための要求があっても、それを大きな声で叫ぶことがない。差別というのは、これら悪循環のアマルガムのようなもののことである。

 精神科疾患が差別されてきたのは、偏見の存在に原因がある。この病気が治らないこと、遺伝すること、危険な症状が見られ隔離収容するしかない、ととらえられてきたためである。治らないとされたために、可能な社会復帰の試みはなかなかなされなかった。また積極的な治療も行われにくかった。およそ病気が差別される最も大きな理由は、その病気が治らないと判断されることがあげられる。特効薬の出現で、病気に対する差別偏見が大きく変化することは、ハンセン氏病や結核の歴史が示している。精神疾患は確かに劇的な特効薬の開発はなかったかも知れないが、20〜30年前とは比較にならないほどの効果を見る薬が開発され、薬物の使用法の技術も発展している。大きく治療効果が変化しているのである。しかし残念なことに、それらは主に症状の激越なときの治療にあてはまるもので、症状がおさまってから、患者が社会復帰していく過程を支えるものは、薬物の存在よりも患者を取り巻く人々の理解と受け止めの方にあると言える。

 精神科疾患が遺伝すると考えられたことは、この病気をかかえた家族が社会的な発言をすることを抑制してきた。病人がいることが知られると、他の家族の結婚に差し支える。見場が悪い。といったことで、病人の存在そのものが隠されてきた。発病したとたん、患者はこの世にいないこととされたりした。また病気であるはずがないと言うことで、必要な治療を受けられず放置される患者もあった。入院先も遠隔地に求められることもしばしばだった。病状が安定しても、退院は回避された。家の近くをウロウロされては困るということになった。そのため、一度病気になった人は、失敗が許されず、完全な成功が見込まれない限り元の生活に戻ることができなくなってしまった。人生の試行錯誤が認められなくなった。そんな条件下で成功を収めるというのは、至難の業である。当然、成功はおぼつかなくなり、それらはすべて、精神病が治らない実例とされていった。

 精神疾患の患者は、周囲の人に危害を加えるおそれがあると考えられた時代がつい最近まであった。しかし、こういう考え方をとると、精神疾患に罹った人が自発的に病院を受診するということは期待できない。どんなに症状が重くて、その人自身が援助を求めていても、自分はそういう危険な病気になっているはずがないという考えがぬけないために、治療を拒否し、周囲からのまなざしに警戒する。追いつめられると、ついには反撃を試みる。結果的に、危険だという目で見ることによって、必要以上に症状の危険性を増大させていたのである。

 このような差別偏見、無視と排除の構造は、一朝一夕に変わるものではない。しかし、心ある人々の努力によって1970年ごろを境として事態は少しずつ変わっていった。そして、一度変化が起こると、悪循環は逆転していく。患者の人権や自由を認め、自己決定権を尊重することによって、治療がうまく進み、効果も上がるようになっていった。それで一層自由を認めやすくなるという関係ができていく。そういう実例が多数できあがると、誰もがそれを認めないわけにはいかなくなった。そうして、精神病院の多くが開放病棟を持つようになり、患者の自発的な入院が一般的になっていった。なにより病棟が明るくなり、職員も働きやすくなった。そうなってみると、閉鎖拘禁的な医療の場が必要であったということも、嘘のような夢のようなことになってしまった。

 しかし、これらの事実は、精神科医療のあらゆる場面で現実のものとなっているわけではない。中には旧態依然とした病院運営も行われている所もある。ただ、大きな方向性が作られたことは間違いない。できるだけ早く、社会の隅々にまで、それらの理解がおよぶことによって、長期入院した患者の社会復帰の実現をはからなければならない。

 さて、これまでの文章では、「精神疾患」「精神病」「患者」という言葉を使ってきて、意識的に「精神障害者」という言葉を使わなかった。ここで改めて、精神障害者という考え方に触れておきたい。まず、障害者という考え方を見てみたい。障害者というのは、一応必要な治療を行って治療効果があがったけれど、それでも機能的な障害が残ってしまったというとらえ方から出てきた言葉である。例えば脳梗塞で治療を行ったけれど、右手が動かないというようなときに、これを障害と認めるわけである。そして障害者には、その障害の程度に応じて、福祉施策を受けることができる権利が生まれる。身体障害の場合には、その障害の判定もある程度定式化できる。ところが、精神疾患の場合は、その症状が病気によるものなのか、障害と呼ぶべきものなのかが過去議論になってきた。完全に病気が治れば、障害もなくなるという考え方が主張された。必要なのは適切な治療であって、福祉施策ではないというのである。この議論は長い間、結論が出なかった。そのため、精神疾患に罹った患者は、社会福祉的な施策を受けられなかったのである。現在では精神疾患の病状と障害を厳密に区別することはできないという考え方が受け入れられている。発病後1年半ほどしても残っている症状は、障害として考えるということになった。そして、そして障害の内容を「生活のしずらさ」ということでまとめることになっている。こうして、精神障害者も福祉施策を受けられるようになり、政策をめぐって社会に発言していくことができるようになっていった。これらはすべて先人の努力、障害者自身の立ち上がりによるものである。

2、精神科医療の歴史

 精神科の医療が、純粋に医療的なものとしてとらえらず、社会的な価値観と関連をもって存在してきたことについて述べてみたが、今度はその政治・経済的な背景について考えてみたい。まず、日本全体の精神科ベットの分布について考えてみたい。人口比較でみると精神科のベット数が多いのは、九州、四国、東北、北海道で、太平洋ベルト地帯は少ない。これは農村、僻地、過疎地にベット数が多く、都市、人口過密地帯に少ないということである。このような差はどこから生まれるのだろうか。農村、僻地その他の産業の乏しい地域で生まれ、育った若者は、一応の教育課程を終えた後、都会にその就職先を求めて移動する。そこで職を得て、生活基盤を確立した人は、やがては都会人となる。しかし、その過程で精神科疾患を罹患してしまうと、しばらくは都市部に留まったとしても、改善が思わしくなければ、家族のいる地方へとUターンしてしまうだろう。帰郷して、出身地付近の病院に入院したりして、治療環境をととのえるであろう。こうして、若年労働力の移動につれて、都市にはより健康な労働者が増加し、逆に地方には障害者が残されると考えられる。

 日本の精神病院のベット数が大きく伸びたのは、経済の高度成長期であった。このことは、産業構造の大きな転換と関連しているであろう。農村から若年の労働力が都市に移動し、人口の偏在が生まれていった。このような移動に取り残された人々の一部が、精神病院に入院することになっていったと考えられる。その顕著な例として、筑豊の炭坑閉山とそれに伴う人口の移動があげられる。1960年代に次々と閉山した炭坑地帯からは、転職可能な労働者は都市へ移動し、移動しきれない人々は閉山地域に残留した。筑豊地帯にいた精神障害者は当然取り残された。その結果、筑豊地帯の精神病院は次第に増加し、1つの県に100の精神病院が出来るという結果になった。精神病院が全国的に偏在するというのも、同じような人口移動の結果であると考えることができるだろう。

 次に、ベットの増加を支える医療費はどこから出たかを考えてみたい。その当時の精神科の入院医療費はだいたい3つの方法で支払われた。1つは、健康保険によるもので本人、家族の別はあるもののある程度の本人負担が必要である。2つ目は生活保護の医療保護と呼ばれるもの。これは医療費が公的な資金によって支払われるが、患者の所属する世帯の収入が一定の水準以下であることが条件となる。また、経済的に頼れる親族などが存在しないことが必要である。そのために、家族、親戚の経済状態が調査される。3つ目は措置入院で、これは患者が「自傷他害」(自分を傷つけるか、他人に害を及ぼす)のおそれのある場合、本人や家族の意志を無視してでも、強制的に入院させるという制度である。国家が強制的に入院させるので、その医療費は国家が支払うことになる。入院費の支払いという観点から見て、これら3つの入院の方法があった。(現在でも基本的に変わらない)

 精神科での入院の中心をしめる精神分裂病は、身体疾患に比べて入院期間が長く、再発も起こりやすい。身体的疾患の入院であれば、2〜3週間までの入院が普通だろうが、精神科疾患となると2〜3ヶ月の入院というのは珍しくない。回復が遅れると、半年、1年とかかることもまれではない。その分医療費の負担も大変になる。ほとんどの家族は、健康保険による入院から出発しようとするが、やがてその負担に耐えられなくなってしまう。かといって生活保護を受けるとなると、その世帯全体の経済活動にも制限が出てくるので、なんとか措置入院の形に乗せてもらおうとする。(現在では措置入院の適応が厳密となり、医療費の財源としては各種年金の障害者年金が利用されることが多くなっている)そのため、自傷他害の症状がなくても、経済的な問題を考慮して、診断書上でそれらの症状があることにするという便法が取られた。こういう方法は「経済措置」と呼ばれ、一時は極めて一般的に行われていた。それも、経済的に貧困な府県で多く行われたため、措置入院の比率は地域的に偏在していった。経済措置の多い所は、人口あたりの精神科ベットの数も多いという状況であった。これらの点は、患者を抱えた家族がその経済的負担を軽くしようとすると、患者の症状が重く、自傷他害のおそれがあるとみなさなければならなかったということになる。そうでなければ、症状は軽いのだから、何とか家族でめんどうを見るべきだというわけである。

 精神病は病気であり、適切な治療を受けることによって、改善するものなのだから、何より安心して治療を受けられる条件を作ることが必要だ。そうすることが、結果的に家族や社会の負担も軽くすむのであり、患者本人にとっても、必要なことである。そういう当然の事実が、その当時は認められていなかったのである。精神病は治らない、治療しても無駄だという考え方が支配的であるなかで、それでも治療の必要性を主張しようとすれば、「精神病者は危険である」という理由を持ち出さなければならなかった。そうしなければ予算が取れなかったのである。措置入院制度も、そういう形で利用されてしまっていた。一度そういう主張をしてしまうと、精神科医療全体がその主張に縛られてしまう。「患者を野放しにしてはいけない」という言葉が聞かれ、入院のための条件が作られた。しかし、それは精神病患者の社会からの隔離と収容の必要性を意味するものであって、入院先の病院で適切な治療を受けられるということを意味していたわけではない。精神病院はその仕事として、ともかく収容するという役割を引き受けていた。

 その当時の精神病院は、定床オーバーが一般的で、どれだけでも患者を詰め込めるように、柔道場のように広い畳敷きの病室に、患者を入院させていた。入院患者が増えると、布団を敷く場所が狭くなった。プライバシーなど存在しなかった。入院患者が外へ出ると、危険性があるということで、全ての窓は鉄格子がはまり、行動は厳重に制限された。それだけでなく、持ち物、金銭、衣服などあらゆるものが制限された。たばこが1日5本とか、ばかばかしい制限もあった。

 このようにして、1960年代に日本の精神病院は増大したが、それは精神医療が閉鎖拘禁的となることと平行していた。やがて、数々の精神病院での不祥事が続発し、社会的な批判を受けるようになっていった。しかし、それらの根本にあった問題点は、精神医療が患者自身のために考えられたのではなく、危険な患者から社会を守るという社会防衛の立場からのみ考えられたことである。簡単に言うと、「あなたも精神病になる可能性があるのだから、その治療のありかたを考えよう」ではなく、「あなたも精神病者から傷つけられる可能性があるから、その対策を考えよう」としてとられられたのである。当然のこととして、患者の立場は無視されてしまった。その当時、ある精神科教授は「自分の家族を安心して入院させられる病院を」という提言を行ったが、それが新鮮なものとして映るくらい、そこで働いている職員にとってすら、精神病院というのは自分や家族が入院する可能性のある場所とは考えられていなかったのである。

 以上見てきたのは精神医療の政治・経済的流れであるが、その背後を支えた法律的な面はどうだったのだろうか。
近代日本で精神病者が最初に法律的に問題となったのは、明治初年日本が開国し諸外国の大使館公使館が作られてからである。日本は文明国の仲間入りをしようとしていた。その折り、欧米諸国の大使館の玄関で行き倒れがあり、その処理法の指示が求められ、併せて文明国では考えられないこととして抗議を受けたことが始まりである。これによって、精神障害者に対する警察の監督権が規定された。放浪者としての扱いから始まったのである。

 次に問題となったのは、いわゆる相馬事件として知られたスキャンダルである。これはかっての藩主を臣下が精神病者にしたてあげて、座敷牢に監禁したという訴えからおこったものであった。政界の中心部までをも巻き込んだ、一大事件となったのである。その解決にあたって、法的に規定のはっきりしなかった座敷牢という私宅監置を明文化することになった。このことによって、乱暴を働くような精神障害者をかかえた家族は、自分たちの責任で患者を監護する義務を負うことになった。ともかく閉じこめないといけなくなってしまったのである。経済的に余裕のある家族ならともかく、その日の生活にも困るような家族の場合には牛小屋や馬小屋のような場所に、患者を収容するという現実が生まれた。

 当時の東大教授であった呉秀三は、その悲惨な現実を調査し、「私宅監置の実状」という詳細なレポートを作っている。日本の精神病者は、精神病となった不幸の他に、この国に生まれたという二重の不幸を背負っているという有名な言葉が書かれたのは、この報告書の中でである。

 呉秀三らは、私宅監置の実状を改革するため、公立の精神病院の設立をうたった精神病院法の成立に努力した。しかし、その法律によっても公的精神病院は増えなかった。それは罰則がなかったからである。そればかりではなく、法律が出来てから、最初に公立の精神病院の開設された大阪、鹿児島などは、外国人に対する精神病者の暴行の事件の結果作られたものであった。あくまでも社会防衛の観点でしかなかったのである。

 昭和に入ってからの軍国主義の時代には、精神医療の進展は見られない。国家の予算は軍事費に重点が置かれ、精神医療は他の福祉などと同じく後回しとなったのである。
精神医療が注目を集めるのは、経済の高度成長の過程と平行していた。すでに見たように、それは精神疾患が社会変動と関連して現れてくるからである。

 ちょうどそのころに起こったライシャワー大使刺傷事件は、精神病者の対策を治安管理的な方向に傾かせる結果となった。「精神病者は危険である」という主張を裏書きするような事件であった。外国の大使が衆人環視のもとで精神障害者から傷害を受けるというショッキングな事態は、対外的面子もあって精神医療の管理的側面を強めることになった。
このような体制のもとでの精神病院の増大は、閉鎖拘禁的な医療のあり方を一層拡大させていくことになった。

 精神病院の増大とその閉鎖性は、やがて多くの問題を生んだ。最もスキャンダラスだったのは、治療のために入院した病院の中で、患者自身が暴行、虐待のため、傷害事件、死亡事件の被害者となってしまったというケースだった。このような事実があっても、精神病院の閉鎖性が、病院内の出来事を外へ知らせることを許さず、たとえ外部にもらされても、「わけのわからない患者の勝手な思いこみ」として処理された。精神病院のほとんどが私的病院であったことも、行政的な介入、指導をむつかしくしていた。しかし、度重なる事態は、そのようなごまかしを許さなくなった。精神病院の閉鎖性こそが問題であると考える人々によって、病院の開放化がはかられていった。全開放の病院が開設されるということも聞かれるようになった。患者自身が自発的に入院すると言うこともありふれたこととなっていった。ところが、法的な扱いということになると、改正作業も行われなかった。これは、法律の改正が精神病院の開設者や行政、精神科医、患者家族の合意をもって実施することが困難であったからであろう。

 こうした事態が大きく動くことになったのは、宇都宮病院での患者への暴行事件の露呈による。この事件の特筆すべき点は、日本国内だけではなく、国際的なレベルで問題とされたからである。国際化の時代にあって、日本の精神医療の事態が一国的な解決を許さなくなっていたのである。国際法律家協会からの調査団の来日と勧告文の発表によって、日本政府は精神衛生法の改正をせざるをえなくなったのである。特に、精神科への自発的入院の極端な少なさは、国際的な非難を浴びた。日本の経済成長は国内的に多くの問題を放置しているからであって、それらに努力している国々が、日本に遅れを取るのは当然であるという指摘である。日本が対等の競争を求めるのであれば、国内の問題にも他の先進国の模範となるような努力を行うべきであるという要求である。精神医療は、日本の努力のたりない端的な実例とされたのである。このような動きを受けて、1983年精神衛生法は精神保健法に改正された。なによりも自発的入院が入院の基本とされた。また、社会復帰活動が法律の中にはっきりとうたわれることになった。

 これらの流れを見ると、日本の精神医療の転換はほとんどが対外的圧力によるものか、それを意識したものであることがわかる。ようするに対外的に見場が悪いということから動いているのである。逆に言うと、日本内部からの反省と変革によって、精神医療が変化するということが乏しかったのである。精神医療そのものが、臭いものに蓋であったので、問題が起こっても蓋の上に蓋を乗せるという発想しか出てこなかったのであろう。

3、精神科小規模作業所の設立の意味

積極的な治療なしにでも、自然に症状が改善し、再発することも少なかった。つまり、そのような治療環境でも治る患者は治るのだからという意識を生んだ。そのために、治療に対する悲観主義と、楽観主義が同居することになった。治るものは治るのだから、積極的な社会復帰活動も定着しなかった。中には社会復帰活動の必要性を主張する人々もあったが、閉鎖的で管理的な精神病院の運営方式が、地域に拡大されるだけではないかという不信感を示す意見も強かった。

 薬物療法の発達によって、極端な症状の悪化は見られなくなったが、必ずしも症状が 精神病院が閉鎖拘禁的な時代であっても、入院する患者の1/3程度の人はそれほど完全に改善するようになったわけではない。精神病院に入院するほどでもないが、普通の就職や社会生活は難しいという患者が多くなった。精神科医は入院の必要となる症状がなくなれば退院を提案するが、退院後の生活に具体的な見通しを立てられるわけでもなかった。だから、目的もなく、自宅でぶらぶらと生活するという形となる。こういう生活が、精神的健康にとって良いわけはない。漫然とした日常は、不規則な生活につながっていく。それは容易に、病気の再発をもたらした。

 こうした状況の中で、1970年代の中頃から自然発生的に生まれてきたのが、患者家族による内職作業所の開設である。家族が集まって内職作業をする。そこに患者を連れて来て、皆で世話をするという方法である。作業所への通所が安定してくると、家族ぬきでも作業が可能になり、場合によれば患者による運営も期待できるようになっていった。

 1980年代に入るころより、これらの作業所に対する自治体の経済的助成が行われるようになり、新規開設が増加していった。その多くは患者家族会の手によるものであった。行政や医療機関がその支援を行うことがあったとしても、それらの組織が中心となって開設された作業所は少ない。

 精神障害者を対象とした作業所が民間の力で地域に多数作られるということは、欧米には見られない日本独自の動きである。その理由は医療や行政、福祉の立場からの社会復帰活動が貧困だからである。患者家族会の人々が、いくら要求しても動かない医療機関その他に期待することをやめて、やむにやまれず自分たちで動き出した努力が、実を結んだのである。

 日本の精神医療が閉鎖拘禁的で、管理的であったことはすでに述べてきた。また対外的な比較や、外国からの批判によって動いてきたことにも触れた。それは精神医療の(政治・経済・法律・思想的)貧困に他ならない。ところが、作業所の開設運動は、これらの性質とは異なったものである。いわば、日本の精神医療の動きの中で、はじめて現場からの盛り上がりによって、動きが作られたのである。そして、作業所数が拡大するにつれて、患者家族による運営から、地域の社会福祉関係者による運営委員会の手による運営へと全体が変わって来ている。作業所の指導員も家族から、専門教育を受けたスタッフによるものへと変化している。そして、現在では精神障害者の社会復帰に関して、作業所を抜きに語ることができないような状況が生まれつつある。これらは大きな流れを作り出している。

 しかし、作業所の現状は、個々の作業所、地域などで質的、量的にばらつきが大きく、1つの基準で全体をとらえたり論じたりすることが困難な現実にある。自治体からの助成金にしても、年間100万円以下の所から2,000万円近い所まである。

 作業所が生み出されたのは、精神医療の貧困によっている。だから作業所運動の進展の中には、現状の精神医療に対する批判が含まれているだろう。その批判を基礎に、将来の精神医療を考えていくということは、重要なことであろう。しかし、現状はすべてが自然発生的すぎる。患者家族の独自の動きなのだから国家や行政の介入を避けるべきだとする意見から、法的整備をはかり福祉体系の中に組み込むべきだという意見まである。このような意見を早急に1つのものにまとめることは無理があるかも知れない。将来を見据えながらも、まずは、多くの人に精神障害者のための作業所の実状を知ってもらい、今後の展望を共に考えてもらう人々を増やしていくべきだろう。


この文章は、京都にある共同作業所・YOUYOU館からお借りしました。

YOUYOU館のホームページは
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/junsho-t/youyou/home.htmlです。


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