週刊「街ニュース」第280号(1998年6月25日発行)
久良木 幹雄さん 追悼号

久良木さんの遺志を引き継いで/則子さん(所長)

「よう、マック、あばよ」 久良木さんが「日本全国・出会いの旅」に出る時に書いた文章のように、久良木さんは本当に逝ってしまいました。

久良木さんとの最初の出会いから、7年もたちました。彼との出会いがなかったら「オープンスペース街」も「チャンプルー街」もなかったでしょう。

「年老いても、貧しくとも、そして障害があっても、何よりも『命が宝』だ」と沖縄からの便りに書いてあった。その久良木さんの最期が、高齢者の問題・孤独死の問題をどうするのか、ということを身をもって叫んでいたように思います。

しかし久良木さんは、そうした自分の個人的なことより、もっと大きな目的を持って、差別・抑圧されている人たちの問題を考えていたのだと思う。久良木さんの話のスケールの大きさには ただただ驚くばかりでした。そういうことを考えられるする人だからこそ「精神障害者復権法」という発想が出てくるのでしょう。

久良木さんの『精神』を忘れずに、彼の目指した方向を見失うことなく、彼の遺志を引き継いでやっていくことをあらためて思いました。


天国にいった久良木さん/一郎さん(「街」メンバー)

天国にいっている久良木さん、貴方の事は一生忘れません。

久良木さんは自分の身を削って、私たち精神障害者の自由、生活、幸福を与えてくれました。
久良木さんのやった事はすべてむだではなかったと思います。
私たち精神障害者は、社会から迫害され無数の人間が犠牲を受けました。久良木さんの正義感 と良心で慰めてくれました。久良木さんは日本一の道徳家でした。私達の自由と精神と人間性を守ってくれました。久良木さんは不道徳な社会と病院に怒りをもって闘ってくれました。私達の自由と夢が歩き出しています


久良木さんありがとう/金巻さん(「街」ボランティア)

「街」にとって、とっても大事なひとらしいけど、逢うとニッコリ笑ってくれるひと、それが久良木さん。去年の発作を乗り越えて良かったですよね。人に助けてもらう嬉しさ。命をいとおしみながら、生きていかれたのではないですか。

5月18日に「チャンプルー街」で開かれた、一人一芸大会でのニコニコしている姿が思い出されます。 久良木さんは種をまく人。受け手により、その種類は違うと思うのですが、私もしっかり受け取ったつもりです。これからどう育て花を咲かせ実らせてくか、私なりに動いていきます。もっと肥料が欲しかった。時間が欲しかったと思うのは甘え過ぎでしょうか。残念です


久良木さんのこと/佐智子さん(「街」メンバー)

久良木さんは「ホットスペ−ス」の最初の所長さんで、初めて久良木さんにワ−プロを教えてもらったことは嬉しかったです。わたしがわからなくなったときもやさしくしてくれました。とても優しかったです。

色々なことがありました。食事の時、「おれは歯が3本なくなったからかめないんだ」っていって笑ってました。それが印象的でした。「2人で、アマガエル みたいだ」っていったら大声で笑ってました。あの笑い声も、もう聞こえないのだと思うと残念です。

久良木さんが、日本とカナダの精神障害者の交流に活躍したことは大変な貢献でしたし、精神障害者のこれからのことを、旅して皆に広めていこうとしてくれたことを大いに感謝しています。

久良木さんの偉大さは忘れません。どうか久良木さん安らかに眠って下さい


久良木さんの遺志/中島さん(「チャンプルー街」のお客さん

久良木さんと初めて会ったのは、彼が「日本全国・出会いの旅」に出る少し前のことだった。 『街ニュース』にのった久良木さんの文章は、ほのぼのとした味がある文章だった。僕は久良木さんに何度も『街ニュース』に記事を書いてくださいと頼んだものだった。

葬儀の前日、「チャンプルー街」で開かれた“久良木さんを偲ぶ会”の時、ハネやんが「明日の葬儀に行く人は『街』を代表していくので、シッカリ久良木さんの遺志を継ぐつもりで行こう」と言った。

久良木さんの遺志とは何かをハネやんが言った。「これからの時代、心病める人も、老人も人間が人間として差別なしに、また幸福に生きられる豊かな地域社会を作っていくこと。中島さんだって、あと10年もしたら高齢者になって地域のお世話になるかもしれない。だから久良木さんの闘いは久良木さんひとりの闘いでなく、地域で暮らす皆がそのために闘っていかねばならない」と言われた(ハネやん注:ちょっと違うけど、大体合ってるからいいか)。私もまったく同感。何か熱い思いがこみあげて来た。
則子さん、ハネやん、身体を大切にして、これからも頑張ってください。


久良木さんの事/板垣さん(「チャンプル街」お客さん)

いつも熱い口調で、国・都道府県において入院されている方々の数、人口比が大きく違うことを話されていました。私は初めて聞かせていただく内容も多かったので、自分の見る世界が変わっていくように思い、久良木さんの行動力に感動しました。

「チャンプルー街」で泡盛を飲まれ、少し赤い顔をしながら、決して声高ではないが確信のある口調で、ゆっくりと話されたり、ライブの時に、両手をお尻に当ててかわいい感じに手を動かしながら踊られていた姿が懐かしく思い出されます。
もう久良木さんと一緒に泡盛を酌みかわしたり、お話し出来ないことは、とても残念です。

サンデー夕食会の時、ハネやんが久良木さん愛用の「ショートピース」をそなえられていたので、お酒好きの私も、久良木さんが愛用していた赤い琉球ガラスに泡盛の古酒をそそがせていただきました。

昨年の10月、骨髄移植ライブでマリアさんが歌い始める直前、「関町ケアネットワーク」で心筋梗塞の発作を起こしている所をタイミングよく、ハネやん、則子さんに発見され病院に行かれた日のことを思い出します。

私も久良木さんのように、たくさんの仲間、人との出会いを大切にして生きていきたい。


 『風の人』/辻さん(「チャンプルー街」シンガー)

久良木さんが,一番遠くへの旅にでかけてしまった。それを俺が事実として,知ったのは6月6日,チャンプル−『街』で歌っているときだった。「そろそろ退院してる頃なのにナ…,」と,思い出す時があった。チョット予感していたとおもう。

俺が久良木さんと知りあったのは,約一年ほど前だったか…リサイクル・ショップ『街』にずっと彼の写真が飾ってあったので,俺は自分で勝手に「アア・きっとこの人が一種のグル(精神的支柱…)なんだな。」と想像していたのだけれど,実際にお会いしてその思いをつよくした。

たしか,そのときはカナダか,どこかへ行かれる前で,俺はCのブル−ス・ハ−プを,「こいつも,連れていってやってヨ。」という気持ちで,さしあげたのを覚えている。彼はとても喜んでくだすって,旅先からの手紙に「少し吹けるようになった,」と書いてあった,と則子さんが教えてくれた。

その後,色々あって,この町に住まわれるようになり,チャ ンプル−にも,ちよくちよく顔を見せてくれていた。そして,よく俺の拙い唄を,誉めてくださっていた。(只のヨイショでは勿論なく,深い示唆であったとおもう。)……たまに,この町をゆっくり歩いてらっしゃる姿は,それでも風の中をゆく旅人のそれに俺にはみえた。そして久良木さんは又,旅立たれてしまった。

今日,久し振りに,爽やな風が吹いていて,公園にいた俺の顔を撫ぜたとき,まるで久良木さんの,『想い』が,吹きぬけていったような気がした…。

        アバヨ!! フ−テン爺さん…。

でも俺は、この「街」の誰が旅立っていったとしても、きっと同じように感じるだろうナ…。


「街」の一番の理解者/直子(「街」職員)

久良木さんは、「街」の一番の理解者でした。

「社会の中でかかった病いは、社会の中でしか治らない」「普通のくらしの中で、地域の人たちとのふれあいの中で、いやされていくこと」「一緒に支えあっていくことが大切なんだ」

そんな言葉が心の中に響きます。

いまでも、ヨッ! という感じで、手をあげて、久良木さんが「街」の前に立っているような気がします。


久良木さんに教えられたこと/ハネやん (沖縄料理店『チャンプルー街』)

「この人は、ただ者ではないな!」 これが久良木さんと最初に出会った時の印象だった。

その時、僕は40歳をすぎ、第2の人生に向けた「人生の踊り場」に立っていた。「ラーメン屋になろうかな」(僕の中学生の時からの夢だった)、「それとも田舎ぐらしでもしてみようかな」……しかし、どれも新しい人生をかけるものとは思えなかった。あふれるばかりの情熱と希望の見えない現実とのギャップの中で、今振り返ると僕は「ウツ」状態のまま1年近くを過ごしていた。

ある日、『ねりま区報』の求人欄を開くと「共同作業所の指導員」の募集広告が載っていた。早速バイクを飛ばして、大泉の「西友オズ」の広場の中にある電話ボックスから電話をした。
「せっかく近くにいるのなら、見学にきたらいかがですか?」 電話を受けた人がそう言ってくれたので、すぐにその共同作業所に飛んで行った。
「ほっとすぺーす練馬」という看板のかかった民家の中から、シラガ交じりの暗い感じの男性が出てきた。その人が久良木さんだった。そして奥の部屋に通された。土曜日なので、メンバーの人はいなかった。

その時、何を話したのか、今ではほとんど記憶がないが、次の2点だけは鮮明におぼえている。
 「共同作業所の指導員って、給料を貰えるのですか?」と聞いた時に久良木さんが笑ったこと。 僕はその時なぜか、福祉労働者は無給だと思っていたのだ!

あと「指導員と書いてありましたが、僕は人を指導できるほどエライ人間じゃないのですが、それでもいいんでしょうか?」と言ったら、久良木さんは苦笑しながら「まったく、そうだね」と答えた。アレコレ1時間ぐらい話して共同作業所を出た。「変わったオジさんだけど、面白そうな人だな」と思った。

多くの応募者の中から、なぜか福祉の経験も知識もない僕ともう一人が採用された。「ほっとすぺーす関町」に配属された日、所長代行できていた久良木さんに「僕は何をしたらいいんですか?」と聞いた。彼は「メンバーさんの所に行って話を聞いているのがいいでしょう」と言った。

久良木さんに教えられた通り、僕は朝・昼・夕方と職員室にいるよりも、メンバーのいる部屋にいて話している時の方が多かった。いつのまにかメンバーの人は、僕に何でも話してくれるようになっていた。久良木さんが僕に教えたかったことは「職員の仕事の1つは、メンバーの話を聞くことなんだナァ」ということが分かった気がした。

久良木さんと一緒に働けたのは、わずか1ケ月たらずだったが、朝の職員ミーティングの時に彼が話すことを、僕は一生懸命ノートにメモした。その一言一言が、今も「久良木精神」として僕の心の中に残っている。

久良木さんに教えられたことはたくさんあるが、一番感心したのことは、彼のスケールの壮大さということだった。久良木さんの「遺稿」となった『精神障害者復権法』の基本理念にこう書かれている。「精神障害者の復権を図ることは、価値観の多様性とすべての人々の尊厳を受容する心豊かな地域社会を築くために、すべての市民が共有すべき課題である」と。

久良木さんがここで想定していることは、「精神障害者」の復権は、同時に「すべての市民の課題」であり、「心豊かな地域社会」作りにつながるということでしょう。
一昨年、久良木さんが「出会いの旅」に出る時の『久良木基金』発足に際して、こう書いた。

「私が勝手に考えますには、この旅には、3つの意味があると思います。
1つ目は、久良木さん自身の『人生の総決算』、
2つ目は、「精神障害者」・当事者の解放に向けての基盤づくりのための遊説、
3つ目は、当事者だけでなく、すべての民衆の人間的な解放という壮大な展望を切り開く旅、


以上の観点に立った時、今日から始まる『旅』は、私たち一人ひとりの旅でもあります」と。

久良木さんは、旅・闘いの途上で帰らぬ人となりましたが、しかし久良木さんはギリギリにまで命を賭して「人生の総決算」をやり抜きました。「精神障害者」解放に向けての基盤をガッチリとうち固めました。そして『精神障害者復権法』という偉大な方針を私たちに残しました。

死のギリギリまで闘い続けた久良木さんの無念さを思う時、残された僕たちが、久良木さんの遺志を引き継いで、彼の「見果てぬ夢」を現実のものにしていく行動に立ち上がらなくてはならないでしょう。久良木さん、安心して見ていてください! あなたが撒いた種は、やがて豊かな果実をみのらすことでしょう! クラやん、安らかに、お眠りください!

− 合掌 −

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