週刊「街ニュース」第299号
(1998年11月25発行)
彦一彦さん(画家)特集号

晋君。御元気ですか。この9月に君が辻さんを描いた素晴らしいデッサンをいただいた画家の彦(げん)一彦です。今日は、僕の連載誌を一冊贈ります。久良木さんの事を書いた号ですので、読んだら赤羽さん(ハネやん)御夫妻にも見せてあげてほしく思います。

 君に初めて会った日、店の(『チャンプルー街』)の暗いところの机で、君がなにか一所懸命書いていた姿がとても心に残っています。僕も田舎の少年時代、君のような少年だったのかもしれません。

 僕は今、武蔵野を描きつづけて居ます。毎日毎日、野外にイーゼルを立てて居ます。畑の中に入ったり農家の敷地内で描く日もあります。芸術の仕事は、日常の平凡なものに、非凡な生命を与え、それを普遍化して行く事です。それには視手(みて)がより深く、強く、愛情のあるゆたかな目で万象を把握できなければなりませんし、それを自分の手で形象するためには、多くの人知られぬ努力もしなければなりません。私は、それを怠らず続けて来ましたし、今も続けています。これからもずっとずっと続けて行きます。そして僕よりもはるかに素晴らしい仕事をこの世に残して去って行った先輩達に、自分も近づきたいと、いつも考えいます。 

 今度御会いした時は、僕にいろいろの事を質問して下さい。私の子供達は社会人になってしまいましたが、僕は君達のような学ぶ姿勢を持つ少年や青年達を愛しているからです。                                      あたたかく
                        1998.11.18 彦一彦   
           
魚庵随筆/猫のいる風景

 知人夫婦のやっている沖縄料理店(*『チャンプルー街』)で今年の春先にKさん(*久良木さん)という旅行作家を夫人(*則子さん)から紹介された。60代をすこし出たかと思われる歳の人で、初対面の時「この人を描いてみたいな。」と思った。アトリエから十分ほどS駅(*武蔵関駅)の商店街の方角に歩いたところに夫婦のこの店はあり、亭主(*ハネやん)の料理が食いたくなると一人で行くこともあり、酒好きの来客があると泡盛を飲ませに夜、同伴する事もある。昼間は腹三分位しか食事を執らぬ習慣の私は朝と夕食はしっかりとるのだが、店の常連と言う程、ここへ通っている訳でも無い。亭主はKさんの人格を深く敬愛している様子であった。影では師匠と呼んでいると奥さんが言っていた。氏が六十年安保時代の闘志だったという話も聞いた気もする。とすれば私よりもちょうど一廻り年上である。

 私はKさんの肖像画を描いた。そして出来上がった十号大の絵をプレゼントしに夫婦の店に持って行った。氏の家を私は知らないので亭主に店に来た時にでも渡してもらおうと思ったのである。と、絵が電波でも発したものか、五分もせぬ内にKさんが店に現れたのだ。氏は絵を手に取り上げると、まじまじと見入り、「私のつまらん顔がこんな立派な絵になりましたか。」と、私の掌を握って礼を言った。店のあるS駅の北側には石神井川が流れている。川には小橋が所所に渡っている。その橋の上にイーゼルを立てて野外で今年は十枚程の絵を描いた。野外で絵を描く悦びは室内では味わえぬ体感をする。その時私は世界で一番広大なアトリエを所有する画家となる。初夏のある昼下がりに、駅の下流の橋に陣取って、五十メートル程上流の橋を描いているとき、橋の北側からKさんがひょっこり現れ、南側の駅の方に消えた。橋を渡っていくその姿が、雲の上をホワンホワンホワンと歩くような、地面に両足がピタリと付いていない風な歩き方だった。絵を仕上げている途中、再びKさんが橋の上に現れ橋を渡ると北の方角に消えた。氏の住居はそっちの方角なのかもしれなかった。

 次に店に寄ると絵が額装されて置かれていた。「自分の部屋で一人じめするより、ここに置いて皆さんに見てもらいたい。」とKさんが言ったとの由だった。私はKさんが、どの様な旅行記を綴り、どの様な著作があるのかも知らない。一、二回店で話した事もあるが仕事の話をした事は無い。が、Kさんには持病があるらしく、ニトロを携帯しているらしかった。氏を前にしていると、おそらく人にも語り切れぬ様な体験や出来事が内側の世界にあるのだが、それに拘泥してはおらず、ある種の諦感が、ユーモアにつながって醸し出されているという印象があった。それが全体の雰囲気を構成していた。だから描いてみたくなったのだろう。私は男の絵を描く事はめったに無い。ある時、亭主から数枚の閉じた印刷物を手渡された(*『街ニュース』)。そこに初めて目にする氏の随筆があり、読み進みながら、「ああ。いい文を書く人だなあ。」と思った。以下に氏の文章の何分の一かを転載する。

<−すぐ前のブロック塀の上に二匹の猫が心好げに座っている。一匹は茶色の斑(まだら)で胸元だけ白く、もう一匹は全身おおう見事な白と、ところどころつけた黒模様とのコントラストが鮮やかだ。彼等はこの一帯のアパートに住み着いた野良猫達の一員だ。全部で八匹ほどいるらしい。アパートの一番奥に住むおばあさんによると、以前は十二、三匹いた。それがアパート沿いの富士街道を走る車に次次に跳ねられた。街道の向いに立つ寿司屋の匂いにひきつけられて、「車の下をくぐっていこうとするんですよ。いくら危いといっても聞きやしないんだから。」とおばあさんは嘆いていた。>

 住人の一人の老婆から、そういう話を聞きながらKさんは最近越したらしい一人暮らしの仕事場の台所で料理を作りはじめる。
<−サバの味噌煮をつくったせいか、ブロック塀の上にはもう一匹の斑が座って、こちらの気配をうかがっている。この野良猫たちとの付き合いも、いつまで続くのだろうか。『出会い紀行』は、いよいよ双六(すごろく)の旅の様相を呈してきた。西へ行くか、東へ行くか、定かではないが、『出会い紀行』、まだまだ続く。その思いだけは消えない。>

 1998年の4月18日に、この文章は書かれている。読み終えて私は、芭蕉の、世にあまねく知られた辞世、−旅に病んで−の一句を思っていた。自分の肉体は思うにまかせぬが頭の何処かが透明に澄んでい冴えている文章だと思った。人間は死ぬ時でなければ、こういう文章は綴れないのではないかと思った。Kさんは雰囲気に育ちの良さをどこか感じさせるところがあった。きっとそうだったのだろうと思う。
 その後一度、夜の店で会った時、「今度、一度是非仕事場に御出かけ下さい。まだ散らかったままですので。」と帰りぎわに言われた。
 「Kさん。片付くのは無理じゃないですか。きっと。」
 「全く、その通りでして。困ったものです。」そんな立ち話をして別れて来た。

 それから一ケ月ちょっと店には行かなかった。何かの用で午后の準備中の店へ行った。店内は薄暗くなっていて、隅の椅子に亭主が一人切りで、テーブルを前にしょんぼり座っていた。壁にもたせかけて、私の絵が置かれていた。二日程前にKさんが死んで、昨夜はここで偲ぶ会をしたのだと言った。亭主は若い時代、どれ位多くのことを氏から教えられたかをその時はじめて私にトツトツと語った。聞き終えて私は言った。

 「でもねえ御主人。人はいつか別れなければならない。人は無常の上を生きて行く。仮にKさんがあと三十年生きたとしても、やはり送る辛さ、さびしさは同じだと思う。今の話を聞いただけでも、Kさんは六十余年の一生を存分に生きたという感想を僕は持つ。天寿だったと考える。だから、そういう気持で送り出してやるべきだ。Kさんの遺志は、あなたがあなたの仕事の上で受け継げば良いのだし、Kさん自身もそれを望んでいると思う。」
 そう言って部屋に帰って来た。

 アトリエの五十坪程の庭の隅の、物置きの下の“広場”で、毎年春先に野良猫が五、六匹の仔を生む。ここ十年以上の猫共の年中行事だ。絶対に人間には近づかない。血統書付きの野良猫共だ。三毛もいれば、トラもいる。黒もいれば白もいる。親たちの長年の混交を思わせる毛並だ。

 天気の日には母猫と物置の屋根の上に出て、乳をもらっている。腹いっぱいになったやつは母猫のシッポでじゃれている。こういう時の母猫の姿は幸せそのものに見える。二階で私がカン! と金ヅチか何かでわざと立てると、全部が一斉にこっちを振り向き、私を注目する。も一発音を立てると、クモの仔を散らす如く三秒程で屋根から一匹もいなくなる。下の安全な“広場”に、もぐってしまうのだ。母猫がエサ捜しに出かける時などは、全部の仔猫を前に何か言い利かして風だ。残された仔猫どもは人目に付くところには決して出ず、一ケ所に固まり、互いにじゃれ合ったりしながら母猫の帰りを待っている。一度、一番毛並みのハッキリしたのを一匹つかまえようと思ったが、すばしっこくて、到底ダメだった。そうやって、“一匹立ち”出来る程度の大きさに育つと、その日を境に一匹残らず庭から姿を消す。犬では出来ない。猫だから出来る芸当だ。

 そして再び春がめぐって来ると、その内の一匹が親猫になって腹に仔を宿し、ここに帰って来て又、仔供を生む。私の光景を毎年眺めて、少年時代、田舎の生家にツバメが早春になると帰って来てヒナを育てていたのを見るような心持ちになる。
 幸いなことに、庭を含む周囲には畑や手頃なヤブもまだ多く、車が激しく往き交う道も無い。だから猫どもは車に跳ばされる心配は無い。

 天 高 し 猫 と 生 ま れ て 働 か ず

 そんな川柳を、どこかで目にした事がある。

◆彦 一彦さんのこの文章は『mono(モノ・マガジン)』(1998年・375.12-2発行号)に掲載されたものからお借りしました。「人間は死ぬ時でなければ、こういう文章は綴れないのではないか」と彦さんは書いてます。「雲の上をホワンホワンホワンと歩くような、地面に両足がピタリと付いていない風な歩き方」の久良木さん、−旅に病んで−もなお『出会いの旅』を続けた久良木さんの「思い」を、今 本当に僕は「仕事の上で受け継ぐ」ことが出来ているのだろうか。            <ハネやん>

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