神戸/小学生殺害事件に寄せて
「いのちの教育」は学校だけではできない
「街ニュース」235号(1997年8月20日 発行)

 神戸市で起きた小学生殺害事件は、大きな衝撃だった。沖縄での少女暴行事件を例に出すまでもなく、子どもや 弱者が犠牲になる事件があまりにも多すぎる。しかも今回は中学生が容疑者として逮捕され、さらに打撃を受けた。

             
  事件を起こした少年の責任、少年を事件に追いこんだ社会の責任

中学生の逮捕後マスコミの報道の中心は教育のあり方・学校のあり方を問うものだった。ほとんどの報道は、この事件の主な原因が学校教育のあり方にあると決めつけている。
容疑者の中学生に対し「学校に来るな」と言ったとされる教師は、あたかもこの事件の「真の犯人」であるかのようなあつかい。

確かに今の学校教育の問題点をあげようとすれば、いくらでもあるだろう。だが、現行の枠内ですでにギリギリの努力が続けられている。何も学校で、「動物や人を殺していい」などと教えているわけがない。それなのに多くのマスコミが、まるで学校教育があの小学生を殺したかのように言い立てている。

Sさんの「学校の枠組みだけで教育の荒廃を克服できるのか」は、わたしの考えに比較的近い。Sさんも言うように「他人を殺害しても『管理教育に対する挑戦』にはならないのだということを彼らに(当の中学生らに)教えてやらなければならない」ということにつきると思う。

この点をあらかじめしっかり押さえることなく、事件の背景をいくら語ったって抽象的な論議にしかならない。何人もの小学生が何の理由もなく殺傷された。弱い者に対する暴力が公然と行われたことに対して、わたしは怒りにふるえずにいられない。それが当たり前の感性だと思う。確かに今の学校教育や社会には問題が多い。その中で傷つく者もいるだろうし、歪んだ考えを持つ者も出てくるだろう。しかし単に考えを持つことと、それを実行することには天と地ほどの開きがある。

容疑者とされる少年の家庭や学校生活を探るのでなく、なぜ彼が実行にまでおよんでしまったのか、その意味の重大さを彼自身に実感させ反省させる、そのことを通じてでなければ、この事件の真の解決はないだろう。 

ではどうやってそれは実現できるのか。われわれは家庭裁判所の判事でもなければ保護司でもない。しかし間接的にではあれ、それぞれの立場で誰もが何ほどかの責任を負っているはずだ。このことが今日最も忘れ去られてしまっている。自分の生活圏とはどこか別のことのように考えられてしまっている。 
「社会が悪い」「教育が悪い」と、あれやこれやのせいにするだけで、誰も自分が責任をとろうとしないのである。      

 学校だけで、教育はできない

けれども学校だけで教育はできない。教室で教師が行うことだけが教育ではなく、社会のあらゆる場面で教育はなされていく。学校は各教科を中心に主に知識の体系としてそれを行なう。
もちろん知識を教えることのみが学校の役割ではないが、教育の何もかもをすべて学校がやってくれるものという固定観念が出来上がってしまっているのである。     

わたしは今、学校で行なっている教育も、大幅に地域に返すべきだと思っている。現状は学校でやることがあまりにも多すぎて、教師も生徒も余裕がなさすぎるである。誰もが一人の社会の成員として、それぞれの立場で教育に対して何らかの責任を負うべきなのだ。自分のまわりの人間の「教育」とりわけ「年下」の者への教育には、やはり責任を負っていくべきなのではないか。


  社会としての教育が成立する関係性の作り直し

要するに家庭単位・学校単位を越えた一つの社会として、教育が成立するような関係性を作り直していくことこが問われている。そうでなければ、いくら学校でやっていいこと」「いけないこと」を教えようとしたって実生活とは関係のない本当に、単なる知識の体系にしかならない。

そもそも動物を理由もなく殺したり、ましては子どもを殺傷したりすることが
良いことか悪いことか、また弱い者に対しいじめを行なうことが良いことなのか悪いことなのか、学校だけで教わることだろか。 

こうした一見当たり前の社会的規範を再構築するために、管理教育の被害者だ・加害者だとか言い立てるのではなく、自分も責任を負っているということを自覚するところから始めなければならない。そうして家庭や学校、職場にかぎらず、できるところで声を出すこと、また社会全体に声を出せるような回路を作り直していくことが、何よりも急務なのではないか!  

<おわり>

  月に向かって吠える子供たち

 普段、僕はほとんど新聞もテレビも見ない生活を送っているが、この事件を知った時「あー僕たち大人の世代の無責任さが彼をここまで追い込んでしまった」という痛苦の念を持った。

 心の中の「暗黒の月」に向かって吠える子供たち、それは彼一人ではない。町を歩いている子供たち、そして高校1年生の僕の息子の心の中にも、きっとあの少年と同じ「思いがあるに違いない」

 この事件は、あの少年の責任ではあるけれど、あの少年だけの責任ではない、という思いから、沖縄料理店・チャンプルー街や、リサイクルショップ・オープンスペース街で何度も、何度も話し合ってきた。

 あの事件は、僕たち自身の問題でもある。子供たちの世代に「豊かな社会」を引き継げないでいる僕たち大人たちの責任でもある。

 そして、あの事件は、テレビ画面の向こう側で起こった「対岸の火事」などではなく、今、僕たちが生きている「この世界」で起きた出来事である。

 問われているのは、あの事件をあれやこれや人事のように「解釈する」ことでなく、再びあのような悲惨な事件を繰り返さないために、いかにこの世界・社会の中で「実践していくか」ということであろう。

 僕は、そして「街」グループは、この5年間の活動を通して、「地域の中にある問題は、地域の人たちの力で解決していくことができる」という確信を深めている。勿論、それだけではまだまだ不十分に違いないが・・・


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