「アサヒグラフ」に、僕たちの写真が載りました!
石川真生(まお)の
「日の丸」を視る目
(沖縄料理店「チャンプルー街」にて)
日の丸・君が代だって!?
これが、僕たちの旗さ。

「障害」のある人も・ない人も支えあって共に生きる
人の世を作ろう!


2003年 大腸ガン手術を受ける、ハネやん、頑張れ! 
応援のページ
2000.4/18
SeventhRoseCD 完成・発売中
『一筋に流れる祈り』
2000・4・19 ¥2700(税込)
 収 録 曲
 90年代
 ヒューマン
 陽が射せばいい
 コメツキ・ブギー
 弱き空の下
 エキセントリック・ブルース
 太陽の心
 ユア・カントリー・ソング
 一筋に流れる祈り
ハネやんがCDのライナーを書いてます。

僕は東京・武蔵関にある「チャンプルー街」という沖縄料理店でシェフをしている。セブンスローズは、ここで3年前から月に数度ライブをやっている。

 「チャンプルー」はいわゆるライブの店ではない。音楽好きの若者が多くを占めるライブ・ハウスと違って、たまたまお客さんとして来た老若男女がオリオンビール・泡盛や沖縄料理を味わいながら、その現場に立ち合わされることになる。当然、食事に来ただけで音楽を聴きたくない人もいる。だから演奏者にとって、とても「シンドイ」場なのだと思う。最初はライブに関心を示さなかった人たちが、ライブが進む中で徐々にミュージシャンの歌世界に引きずり込まれ、音楽を心から楽しむ観客に変化する瞬間を厨房の中で見ているのが、僕のひそかな愉しみである。

 ヴォーカル・稲川さんとの出会いは、彼が僕の店に営業マンとして来ていてバンドをやってるのを知って「唄ってみない?」と言ったのがキッカケだった。それからしばらくして店のメインバンドがライブの最中に、ふらっと稲川さんがやってきた。そしてライブが終わった後で、彼がマイクの前に座った。本当のことを言うと、その時の僕はあまり期待していなかった。でもその期待を見事に裏切ってくれた。メインバンドの後というのに、全然ものおじしない堂々たる唄いっぷりだった。僕は久しぶりに「真直ぐな若者」に出会った気がした。いま考えてみると、そうした唄い方に彼の(セブンスローズの)音楽に対する姿勢がよくあらわれている。

 ライブが終わった後で、よく彼らと討論する。僕は50才を過ぎた熱いオジさんだが、情熱のベーシスト・金沢さん、堅実で爽やかなリードギターの鈴木さん、そしてドッシリと生活に根を張った歌・詞づくりをする稲川さん。熱き心の若者たち。そんな彼らを見ていると思わず嬉しくなってしまう。

 彼らの歌には様々な思い出がある。このアルバムにも収められている「太陽の心」は僕の大好きな曲である。

 「♪どんなに遠く離れていても、空は繋っている。
  どんなに遠く離れていても、あなたは一人じゃない」

 原曲は遠く離れることになった友に捧げる歌として作られた歌だが、この曲は僕たちにとって、店の常連客で高齢と病を抱えながら「精神障害者の解放」を目指して日本全国行脚の旅に出た久良木さんとの連帯の歌となった。しかしその彼も今は、この世にいない。

 セブンスローズの歌は発展する歌である。いつの頃からか、稲川さんがこの曲の歌詞を唄い終わった後で、マイクをお客さんに回すようになった。マイクを受け取った人は、その時の自分の心情を語りその後で「♪あなたは一人じゃない!」というフレーズを唄う。時には延々と1時間もそうした熱い語りが続くことがある。その時「太陽の心」は作り手を離れて、その場に立ち会った一人ひとりの「心の歌」へと発展していく。アルバムでもその臨場感が伝わるが、是非、ライブで聴いてほしい曲である。

 私事ながら今年の1月、「チャンプルー街」の名物女将で僕の連れ合いが入院した。手術前の彼女に向けて、当日居合せた一人一人が彼女の手術の成功を祈って語った。そのビデオは翌日彼女の元に届けられた。一人ひとりの熱い想いが彼女に伝わった。その場面に立ち会えなかった人も、そのビデオを見て涙を流した。セブンスローズの歌は、病と闘う彼女への応援歌となった。

 セブンスローズはライブの最後に「一筋に流れる祈り」を唄う。今の僕の活動の中心は沖縄料理店のシェフだが、インターネットを通じて全国の「心の病」を抱えて生きている人たちのサポート活動をしている。一昨年の末、インターネット情報センター「全国ハートネット」を立ち上げた。たまたま稲川さんが店に来たので、「ハートネットのテーマソングを作ってくれない?」と気軽に言ってしまった。後で聞いた話では七転八倒した末に完成したという。誌上を借りて深く感謝します。この「一筋に流れる祈り」は、セブンスローズの音楽観・社会観・人生観が見事に結実した彼らの代表曲と言ってもいいだろう。今の時代と正面から向き合い、切り結んでいる作品である。

 「音楽で世界を変えることは可能か」 これは1960年代後半から始まったフォークソング運動の中で討論された問題である。僕たちは今年の6月「すべての命のチャンプラリズム」と題するコンサートを企画している。「基地をおしつけられた沖縄、選別された障害者・キーサン、引き裂かれた民族・在日、葬り去られようとしているジュゴン、チャンプルー(ごちゃまぜ)の中から新しい命・地球がつくられようとしている」というサブテーマで。

 沖縄、在日、キーサンをはじめとするミュージシャンが、21世紀(地球史上はじめて、すべての命が大切にされる時代)を創造しようと集まる。勿論セブンスローズは沖縄料理店「チャンプルー街」を代表するバンドとして参加する。そこでセブンスローズは、不器用だが「心情あふるる誠実さ」を武器に21世紀への熱い想いを謳い上げることだろう。いや「武器」でなく、喜納昌吉の言う「すべての武器を楽器に!」新しい時代を疾駆するはずである。

「チャンプルー街」ハネやん

以下の文章は、私がまだ共同作業所「ほっとすぺーす関町」の職員時代から「街」のボランティア時代の2年間、数回に渡り書いた文章です。そのため読み進むと、時間的に飛んでしまう表現がありますがご了承ください。

 また「福祉」についてキチンと学んだ経験もなく、共同作業所の職員になって数ヶ月の段階で書き始めたものなので、今読み返してみると乱暴で未熟な文章だなぁと赤面しますが、あえて改訂せずにそのまま掲載することにしました。

<「街」(まち)の経緯>

1992年10月/町工場の親父から共同作業所「ほっとすぺーす関町」の職員になる
1993年3月/職員時代に「オープンスペース街」(自主運営)の設立に関わる
1993年9月/「ほっとすぺーす関町」退職
1994年5月/相談室「関町ケアネットワーク」を設立。以降3年間、同所の専属相談員
1995年12月/「レストラン街」(沖縄料理店・チャンプルー街の前身)のオープン
1996年4月/「街」が共同作業所としてリニューアル・オープン
1997年11月/「チャンプルー街」のコックになる

「街」を作った理由ハネやん

(1993年春から連載開始)

 1、共同作業所における低賃金の問題
自主運営のリサイクルショップ『オープンスペース街』は、共同作業所「ほっとすぺーす関町」のスタッフ3人、メンバー1人、地域の女性1人の5人を準備委員として、「ほっとすぺーす」運営委員会とは別個の形で設立された。
作った動機とその後の経過を書くと、1月に入ってすぐに、「ほっとすぺーす関町」としては初めてのメンバーとの個人面談が行なわれた。そこでメンバーの多くの声として出たのが、作業工賃の圧倒的低さの問題でした。1と月間働いて、わずか数千円たらずの低賃金。これが共同作業所の名のもとにまかり通っている。

 内職の袋張りや軽作業という作業の内容と共に、こうした低賃金はほとんど刑務所における懲役者と同じ状況下に置かれているといってもいい。そして、こうした下請労働こそが日本経済のいつわりの「繁栄」を支えてきたし、現に支えていることを決して忘れてはならない。

 メンバーの一人がこう書いた。「下請作業というのは、その賃金の恐るべき低さ、納期などの面で、私達、精神障害者の人間としての尊厳を傷つけられることが多い」という文章は、その点を鋭く指摘している。まさに共同作業所の作業というものは、つねにそうした問題性をはらんでいることに無自覚であってはなるまい。

 このことは同時に、共同作業所が「医療」から「福祉」、「地域の中での受け皿づくり」という面で果たしてきた役割は大きい。それは作業所に与えられた医療からの「入口」としての側面においてである。しかし当時、一部のメンバーにとって作業所から「社会」への「出口」の形態を考える時期にそろそろきている(勿論、「入口」としての役割を放棄するということでは決してないし、それはそれで、現段階では重要な意義がある)。

 1月のメンバーとの個人面談で突きつけられたのは、実はこの課題であった。「工賃をもっとほしい」というメンバーの切実な声は、共同作業所の日常活動に汲々としていた未熟なスタッフに対して共同作業所からの「出口」を切り拓くことを要求したのである。

 一般就労への援助か、職親をさがすことか、「ほっとすぺーす関町」とは違った形で工賃的に比較的高い自主的事業を始めるか、それとも、まったく別の形態か。 

 2、当事者に対する差別と偏見
『街』を作ろうと思った動機は、「精神障害者」(以下、当事者とする)の解放が共同作業所という枠内では不可能ではないかという疑問からだった。もし仮りに、「理想的な」作業所というものが実現できたとしても、それですべてが完結するものではないという想いを、勤め始めた当初から抱いていた。

 当事者に対する社会的な差別・偏見が温存されたままで、共同作業所が「良い共同作業所」として永遠に存続するような社会では、共同作業所は「第2の精神病院」と化してしまう。そうならないためには、当事者の人たちだけが変わればいいのでなく、本当の意味で変わらなければならないのは私たち「健常者」の側なのだ。事実、私自身、共同作業所の職員になるまでは、共同作業所の存在や、当事者の人たちが置かれてきた歴史や状況にほとんど無知だった。いや正直に書けば、マスコミの流す一方的で偏向した情報を無批判的に受け入れて、偏見をもっていたし、差別に加担していたといえる。

 「社会の人の障害者に対する偏見・蔑視」(明雄さん)、また、「精神障害者は怖い」という捏造が私たちの中に入り込む原因はどこにあるのか。それは、当事者の人たちと私たち「健常者」が、日常的にほとんど関わりをもたない点に由来する。

1、当事者の人たちが起こす事件がある度に、マスコミによる意図的としか言い様のないキャンペーンなどで、当事者に対する偏見がつくられていく、
2、そうした偏見があるので、つきあいが難しくなり
3、そして、つきあいがないから、よけい偏見が助長され、
4、偏見が拡大される結果、つきあいが更に難しくなっていく。

こうした悪循環をなんとしても断ち切りたいという思いが『街』を作った第2の理由でした。

 『街』で地域の人たちと出会う。その出会いの中で、当事者の本当の姿を知っていく。そして偏見が徐々に氷解されていく。いや、その過程を通して、私たち自身の身についていた「差別・偏見」という悪しき汚れをぬぐいとることができるのではないかと考えた。そうした『街』での出会いと、私たちの側に「厳しい自己点検、自己変革」(久保ヤン)という蓄積があってはじめて、差別も抑圧も偏見もない新しい『共生社会』の基礎がつくられるのであり、その社会にふさわしい内容をつくりだしていくことが可能となる。それに向けた第1歩として『街』がつくられた。差別と偏見を日常的なふれあいと交流を通して、『街』が目指している「障害のある人も・ない人も支えあって共に生きる街」づくりを前進させたいと考えた。

 3、当事者の住居問題
第3の理由は、当事者の住居問題です。
現在、日本では150万人の人が精神病院に通院し、35万人が入院していると言われている。練馬では約7千人の人が通院し、1900人の人が入院している。この35万人の退院が今日、緊急課題となっている。そのためには、退院後の生活の大前提であり、住居・アパート若しくは、世話人や医者などのケア付きの共同住居・グループホームの大量の創設が必要です。しかし、アパートを借りることは非常に困難と言わなければなりません。入院しているということを隠さなければアパートを貸してくれないのが実情でした。

 この35万人の退院ということを考えた場合、「35万人体制に改革の矛先を向けないままの『受け皿』論には、うさんくささが限りなくつきまとう」 現在の比較的症状の「軽い」人たちだけを共同作業所などに通ってもらうことで、事足りとしてはなるまい。

 今なお、多くの当事者たちが犯罪を犯したわけでもないのに、「閉鎖病棟の鉄格子の中に収容されているという惨状、この悲惨な人権侵害」(久良木さん)を決して忘れてはならない。

 入院している人は、刑事被告人や懲役者よりもひどい状況下に置かれている。刑事被告人は、弁護士接見という形で面会が認められている。また、懲役者は定期刑としてその期間さえつとめれば「娑婆」に出ることができる。これは、罪刑法定主義による「懲役者の人権」を守るものである。

 しかし、長期入院させられている人たちには、この『権利』さえ許されていない。そこでは病院の医師たちが裁判官や検察官を代行する。いや、そこでは被告の人権を守るべき弁護人の同席も許さない「欠席裁判」で、すべてが決定されて行く。正当な異議申立さえもすべて「病状」のせいにされて、保護室に入れられてしまう。これで法治国家といえるのだろうか! 暗黒裁判そのものです。まさにこれは、人権侵害そのものであり、「国家賠償の問題」(久良木さん)です。

 ともかく、あらゆる手段で長期入院の人たちを受け入れる住居を着実に作っていくこと。それと共に、三十五万人という大量の退院を実現していくためには、徐々に変えていく、一つ一つ積み重ねて行くという発想では限界がある。「ともかく退院という発想」(久良木さん)が不可欠です。

 また、「受け皿を地域に幾つか作る」ことで終わるのではなく、「地域を丸ごと受け皿化する」という中でしか、本当の解決方法はないのではないか。そのためには、『街』における地域の人たちとの熱い出会いを通して、その人たちとの固い連携と協力の下、「支えあい共に生きる街」づくりに向けて着実に前進していくことを夢想しました。 

 地域の人たちの立上がり
私は、いまだ見ぬ地域の人々との結合の可能性に賭けたといっていい。しかし開店の準備段階で「店の持続性」に対する疑問が提起された。「本当にやって行けるのだろうか?」と。しかし、私はそれに関してまったく楽天的であった。

 確かに当時の主体的力量を考えた場合、持続は困難だった。だが、私の中には地域の人々が必ず援助してくれるという「確信」があった。それは私の「人間は変わりうるもの」「民衆は必ず立ち上がる」という不動の確信に由来する。そして、地域の人たちが陸続として立ち上がっていくイメージの中に、『街』が成功する条件を見ていたといえる。そのイメージ、言い換えれば、そうした想像力(現実を変革する内容を基礎とする)に依拠することによって『街』は開店以前からすでに成功する条件を獲得していたといえる。また、そうした想像力とその実践なしには、今日いわれている「ノーマライゼーション」(私流にいえば、「支えあい共に生きる街」)は、そもそも絵に描いた餅にすぎない。

 「振り返ってみると……私の中にあったのは……個人の生をがんじがらめにしていく地域社会の否定的イメージ」と久保やんが以前の自分を振り返っていみじくも書いていたが、実際こうした地域と地域の人々に対する否定的イメージに捉われる傾向が強いのではないだろうか。ここからは、どうせ失敗する、やっても無駄ということしか出てこない。それはどうしてなのか? 歴史を正しく学んでいない、としか言いようがない。

 5月の連休に、『街』のみんなで奥秩父へキャンプに行ってきた。そしてバンガローで一泊した翌日、「秩父困民党」巡りをした。1884年、秩父困民党は秩父の谷間から武装蜂起し、郡役所を占拠して、「無政の郷」を作り出した。そして、「自由自治元年」という年号を制定する。「明治維新」前後の民衆運動史を我流でかじったことのある私は、ここに一度来てみたかった。

 よく「日本人は従順な民族」といわれているが、100年前の人たちは飛びっきり元気印だった。秩父蜂起は、自由民権運動の最後にして最高の形態である。11月1日の夜、手に手に武器を持った農民3000が椋神社に結集した。今回、椋神社には誰も集まっていなかったが、百数十年前の農民たちの喚声が今にも聞こえて来るようだった。当時の民衆は、まだまだ歴史を動かす主人公としての気概と原動力をもっていた。「20世紀末の人たちよ頑張れ」そう言われた気がした。

 つまり人類史を振り返ってみても、「地域の否定的なイメージ」は殆ど出てこない。それよりも、いつの時代においても民衆は元気なのである。逆にいうと、「民衆は元気」と思えないのは、「民衆が元気だと困る」「元気であってほしくない」という権力者の論理に絡めとられている。

 『街』開店以降の2か月の経験は、「民衆は元気」ということを証明した2か月であった。「ほっとすぺーす関町」と『街』、ボランティアと地域の人たちとの関係がさやかながら有機的に結合され始めた日々でした。詳細は省くが、ともかく、『街』開店以前の「ほっとすぺーす関町」の状況に比べて、開店後の活性化は、めざましいものがある。そうした前進を根底で支えているのは、32名の『街』のボランティア・スタッフでした。いくら『街』の設立スタッフの思い入れが強いものであろうと、こうしたボランティア・スタッフの人たちの援助なしには、『街』は存続し、発展することはできなかった。

 トリエステの教訓
羽仁五郎は『都市の論理』の中でこう書いている。「そこに地域社会があったか、なかったということより、そこに革命的性質があったか、なかったかということによって精神障害者の解放か、拘束か、ということが決定された」と。

 つまり「地域」ということを考えた場合、「地域一般」というものが問われているのではない。これまでは「行政に多くを依存しずぎてきた。住民による直接参加と自らの地域社会づくり」という傾向が強かったが、やはり行政の側からの(上からの)地域社会づくりに依存しないで、地域社会の主体である地域住民を中心とする「下からの」地域づくりというものこそが、羽仁五郎のいう「先進的な内容をもった地域」づくりを進めていく上で大切なことだと思った。

 イタリアでは、その歴史性を利用し、地域との結びつきを強める中で精神医療改革を社会改革の一環としてすすめていった。トリエステのバザーリア医師は、従来の精神医療をのりこえる道を提起する。それは医師・「患者」関係を根本的にひっくり返すことである。当事者の「病気ではなく、苦悩の問題に共同してかかわる時、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化してきます。そこから抑圧への願望もなくなり、現実の問題が出てくる。自らの問題が心理学的な問題などではなく、社会的、それゆえに政治的な問題であることを学びます」と。そして、そこから医師と「患者」の関係だけでなく、入院制度の問題、制度と住民一般との全く新しい関係を展開していくことになる。

 バザーリアはトリエステの解体に際してこう語った。「病院の壁が残っているかどうかは問題ではありません。私たちは壁の内外を変えることによって、施設の論理を破壊するのです」と。

 地域との結合
イタリアの北部にあるパルマ県の「草の根精神医療」は、1969年の学生たちによるコロルノ精神病院の占拠によって開始の鐘を告げ知らせた。35日間にわたる占拠闘争の中でパルマ全体が活性化していく。「何百回と集会をもった。工場でも、公民館でも、あちこちの町や村でも。あらゆる人がそれに参加した。労働者も、農民も、知識人も、そして患者自身も」

 またこの占拠闘争には、多くの患者さんが参加した。病院での会議で、彼らの多くが発言し、自らの要求(思想の自由、自己決定権など)を伝えた。このように多くの地域住民の参加の中で「草の根精神医療」がすすめられたパルマとは、いかなる地域だったのか? この精神医療改革の進展をみるとき、パルマの歴史を抜きには語れない。

 1922年、ムッソリーニの「ローマ行進」に対して、ファシストを追放しバリケードを作って抵抗したり、1943〜45年にはナチスの占領軍に対してパルチザンを結成して闘った。北イタリアのいたる所で労働運動の歴史があり、こうしたファシズムとの闘いと分かちがたく結びついている。冒頭で書いたように「精神医療改革を社会改革の一環」としてすすめていく根拠がここにある。

 精神医療改革の闘いが、多数の住民の参加のもとで展開される所はどこでも、こうした労働者組織が強く根を張っている。当事者の社会参加を実現しようとするとき、こうしたグループの協力があった。それは労組や協同組合、社共の分会のほかに、文化、歌、狩り、釣りのクラブにいたるまでの各組織網がフルに動員されたのである。

 ともかく『街』を基軸とした地域との関わりの中で切り開いてきた5ケ月間の成果と教訓を生かしきり、さらなる飛躍に向けて前進していきたいと思う。「病気が精神病院で超克されるとは思わない。私たちは外部社会で病気にうち勝たなければならないし、それは社会が変わることでそうなるのだと思う」

4、『街』の2年間の実践から
 早いものでオープンスペース『街』は開店2周年を迎える。同時に私が「ほっとすぺーす関町」を辞めてから1年が経った。簡単に、この1年間を振り返ってみたい。低賃金の改善、偏見・差別の問題、生活支援・住居問題、地域との関わり、以上の4点が『街』を開店した主な理由であった。

 作業所から地域へ
 以上4点は、社会=地域との関係性の変革とまとめることができる。それは、従来の当事者・作業所と地域との「閉ざされた関係」を「開かれた関係」へ変えることである。しかし「地域に開かれた作業所・場」を目指すというが、実際この点が最も困難である。

 「つくりっこの家クラブハウス」発行の『つくりっこだより』の中にこういう文章がのっていた。「地域で作業所を開きたいと地域の中に作業所をつくっても、地域とのかかわりがとぼしく結果的に閉鎖的な場になってしまうことが、ままある」と窪田氏(クボタクリニック)の話を引用し「そういう状況というのは、ありがちなこと」と筆者は書いている。

 このことは多くの作業所の設立過程にも共通する課題でもある。それは、当事者の人たちの置かれている厳しい状況(共同作業所の設立に対して住民の反対運動が起きるなど)に規定されて、地域の外部から、ある意味で強制着陸させる形で作業所を設立せざろうえなかったことに関連している。つまり作業所設立の出発点が、当事者の家族たちを中心とする地域を巻き込んだ住民運動として展開してこなかった(いや、できない困難性があった)点に由来している。

 言い換えると、多くの作業所があらかじめ「閉ざされた場」として出発せざるをえなかったといえるだろう。勿論、別の形で設立された作業所もある。「つくりっこだより」の筆者は、「クラブハウスは作業所でありながら地域から生まれたという類いまれな存在」と書いている。まさにそれは、「つくりっこの家クラブハウス」を設立する以前の十余年間の着実で豊富な活動に裏打ちされた言葉そのものである。

偏見・差別の問題 
 しかし『街』は、地域運動の蓄積が全くないという所から出発したのだから、いまさらジタバタしたって始まらない。問題は「閉鎖的な場」をいかに「地域に開かれた作業所・場」に変えて行くのかという点にあった。紙面の都合上結論だけ書くと、『街』開店以来の1年間を振り返ってみると「まあ、いい線を行ってるんじゃないか!」と思っている。『街』の1年間の方針と実践は、差別と偏見という課題を正面から掲げて地域の中へ大胆に飛び込むことであった。

 当事者に対する偏見が作られていく構造を、「当事者の人たち」と「地域の人たち」が実際にふれあい・交流することを通して突き崩して行く方法をとった。それも出来るだけ大量の地域の人々との交流を目指した。

 「『街』で地域の人たちと出会う。その出会いの中で、当事者の本当の姿を知っていく。そして偏見が徐々に氷解されていく。いや、その過程を通して私たち自身の身についていた『差別と偏見』という悪しき汚れをぬぐいとることができるだろう」(『街』で思うこと2)と以前に書いた。

 昨年、『街』のお客さんから、「ほっとすぺーす関町」に4件の仕事依頼があった。Aさん、Bさんは共に『街』が開店した当初からのお客さんで、『街』の活動をつぶさに見て来た人たちである。Aさん、Bさんは『街』へ働きに来る「ほっとすぺーす」のメンバーたちとの日常的な交流を一年間、蓄積してきたともいえる。その蓄積の中から信頼関係が生まれ、仕事の依頼へと繋がったのである。そして、そうした信頼関係を生みだした原動力は「ほっとすぺーす」のメンバーや当事者一人ひとりの豊かな人間性そのものにほかならない。

 しかし、こうした信頼関係が生まれたことだけで単純に喜んではいられない。『街ニュース』18号でH氏はこう書いている。

 「『精神障害者』の地域生活の現実は厳しく偏見や差別は変わっていません。『精神障害者』のみならず『障害者』が地域で生きるということの辛さは、死活のかかった問題としてあります」と、H氏が指摘しているように「現実は厳しく、偏見や差別は変わっていない」と言わざろうえない。実はこの仕事依頼の過程で、ある差別事件が発生した。Aさんの仕事依頼の中で、Aさんの外部の人から「精神障害者」に対する差別的な発言があった。「ほっとすぺーす関町」や『街』を一歩出ると偏見と差別はまだ色濃く残っている。ただ一言つけ加えると、そうした差別的な発言に対して断固として立ち向かったのがAさんその人であった。「間違っているのは当事者の人でなく、アナタの方だ!」という立場を最後まで貫きえたことの中に、1年前のAさんに比べて大きなな変革がある。まさに、そうした立場に立ちえたのはこの一年間、『街』において当事者の人たちとふれあい・交流してきたことの結果といえるであろう。

地域の底辺から
 『街』における1年間の活動を通して、私自身のスタンスが変化してきた。最初は「ほっとすぺーす」からだけの視点で地域のことを考えていた。しかし『街』において、「ほっとすぺーす関町」のメンバーの人たちだけではなく、関町で暮らしている他の共同作業所・病院のデイケアに通うメンバーの人たち、作業所へ通えない人たちなど100人近い当事者と出会うことができた。

 そして「街」が「オープンスペース」(地域の人たちに開かれた場)であるがゆえに、当事者だけでなく他の様々な「障害者」を持った人たち、一人暮らしの高齢者、在日アジア人外国人労働者やその他の人たちと出会った。そして彼らがこの地域社会の中で、生きる上での困難性に直面してること知らされた。

 それゆえ『街』は、地域に開かれた場として作られたことで、「よろず相談の場」になった。しかし開店当初、この「オープンスペース」の思いは、抽象的なスローガンにすぎなかった。それが、この1年間の実践の中で徐々にではあるが具体的なものになりつつある。

 そのことに踏まえて『街』の今後の方向性は、作業所から地域のことをを考え始めるのでなく、地域の底辺から、地域の一部分(一構成要素)としての「ほっとすぺーす関町」や慈雲堂病院、また関町生活実習所や、さらに他の「障害」をもっている人たち、高齢の「障害者」の方々、在日アジア人の皆さん、その他、今の社会=地域が生きづらいと思っている人たちと手を結び、今の生きづらい「町」を「障害」のある人も・ない人も支えあって共に生きる「街」へと、さらに前進していきたいと考えています。

お疲れさまでした。

ハネやんの部屋 その2へ 手術を受けるハネやんの応援 
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