チャンプルーハネやん..
Part・3 パンク放浪記

「チャンプルー」に着いたのは夜9時位。車をおそるおそる路上駐車して店に向かった。店ではこれでもかという位疲れた僕を歓迎してくれた。おそらく僕が会社をドロップアウトして唯一受け入れてくれるところ。それがその時僕にとって「街」であり「チャンプルー」だった。

 いったい誰に会いたかったんだろう? ハネヤンとものり子さんとも今ほど深く接していた記憶はない。それでも会いたかった,行きたかった理由はたぶん常に僕のあからさまなあがきを受け止めつつもさまざまな疑問をなげかけ「パンクとしての僕」を大事にするよう悟してくれていたハネヤンにとても感謝の念が込み上げてきていたからだと思う。

  僕も試すだけ自分を試した実感があったしこの時、僕の心が一つ「リセット」された気がする。別に無心だった訳ではないのだが「これまでの価値観の延長線上に僕の未来がある訳ではない」というのが心の底から実感できた。ここに至るまでには書ききれない位の「あがき」と「挫折」を繰り返していたのだから「もういい。しばらくはホントに好きな事しかやるきはない!」という決定が僕の中で成された。好きな事しかやらないというのは"ホントニスキナコトシカヤンナイ"ということである。

 みなさんおわかりか? 自分の中の価値観も含めて環境,経済その他のもの含めてすべてが整ったとき"スキナコトダケ"ができる。その時の僕は忙しすぎたために貯金がかなりあったのである。これが後に僕自身の首をまわらなくさせる原因となる。

 僕はチャンプルーを手伝いだした。当分アルバイトをする気もない。というより「自分の力量」がわかりすぎるほど分かったため,当時26歳だった僕の年齢に要求されるような責任をともなう仕事は勤まらないということを自覚していた。ジャブ程度のアルバイトも想像してみなくはなかったが,それよりもここまで自分を苦しめて(?)きた社会常識というやつをけっこう呪っていた。しばらく好きなことしかやるまいというのは誠の気持ちだったのである。

 そしてTさんというミュージシャンに弟子いりしチャンプルーで「弾き語りをするパンク青年」としてついに登場するのである。この時現在の自分の原形がスタートすることになるのだが現実はそれほどご親切ではない。

  その当時の僕はいわば「歌を忘れたカナリヤ」状態。唄えと言われてもパンクのボーカルだった僕にとってはフォークで表現できる持ち歌なんてほとんど無い状態だったのである。たたきあげのミュージシャンTさんにはにはガキのいいわけの如きいいのがれはまったく通用しない。彼はまさにそのステージ度胸ひとすじでこの世をうろついてきたのである。

 「それじゃ仁,歌え!」。

チャンプルーの営業時間中にいつこの声がかかるのか気が気でなかった。そして,心持ちのさだまらないままに「へたなおんがく」としてのパンクを必死にがなった。

1997年6月
仁くん、チャンプルー・ライブ
I am Jin

 それではここでここに至るまでのあるきっかけがチャンプルーでおきたことをお話しておこう。その日はTさんと彼の仲間たちによるバンドでの恒例チャンプルーライブがある日だった。僕もプータロウなのをいいことにお気楽にほいほいそこへ出かけていった。渋〜〜い音楽が店に充満してる。お客さんで来ている。「街」のスタッフ富田さんのご家族もなごやかなムードに満足げだ。

 Tさんはそんな時、必ずかましてくる。「仁,俺らが休んでる間1曲でもいいから何かやれ! 俺の弟子ならどんな状況でもまず人前でプレイすることが大事だ。やれっ!」。こう来たもんだ。

 Tさん達の演奏もうつろに聞こえる。頭の中はグルグルしてる。こんな時、僕がただのミュージシャン志望だったら「まー気楽に場に合う曲でもやればいいや」となるだろう。

  だが俺は誰がなんと言おうとパンクスだ!

  俺の逃げは、ひいてはパンクへの冒涜になるのだ! 

 かまうことはない。パンク・ ・・あのへたでもいい、力強く叫べばいい、俺達は坂本龍一には逆立ちしたってなれないが、彼になんか負けないくらいロックを愛してる。

  俺らだってやれる! 

  やれるんだ! 

  だから「パンク」はすごく自由で優しいんだ! 

 という思い。そんな思いでいつもやって来たから、「僕は今グッドミュージックはできない! だけど病み上がりのパンクをかましてやるから聞けや!」そんな思いをかたわらに思いのたけ唄った。

 僕のパンク魂は燃え上がった。曲はルースターズの「モナ」(アイ・ニード・ユー・ベイビー)だ。高校時代にバンド仲間をくぎ付けにした名曲。僕の予想をはるかに越えてその唄はおおいにもりあがった。それこそ我を忘れて唄ったのだが"ホントニ燃エル"ということを僕は知っているので技術うんぬんをぬきにしても「まだまだだな」というのが正直な感想。でもあの日ああして、がなったことが僕自身の「パンクへの復活の日」であったことは間違い無い。火種の一つも燈されたと言ったところか。

 そして少しづつ、チャンプルーでの弾き語りも恒例化されて行く。だが,様々な気持ちのうきしずみ,精神的な葛藤・・・「いかに自分を表現しきるか」といった問いが自分の中でうごめき満足にプレイに集中できない。今思えば自意識過剰から来るこれも一つの「ノイローゼ」。そういうものは演奏にとても出る。僕の演奏もいい時にはいいがほとんど「シゴキ」に近い状態でただこなす毎日へとなだれ込んでいった。それでも意固地に何があろうと怒鳴る。ギターの音量をでかくしすぎて近所から苦情が・・・。だがハネヤン達は過激であろうとする僕の姿勢に寛大に接してくれた。

 しかし限界がきていた。確固たる信念の元に叫ぶのであれば胸のひとつも張れよう。だがそのときの僕は例の「パンクスピリット」もうやふやで,ただの屁のつっぱりとしてパンクを唄っていたにすぎない。パンク精神の抜け殻が見せかけのパンクを唄う。僕のもっとも軽蔑するパンクを冒涜するような唄うたいだ。僕自身もただパンクをやるのでは飽き足らない年齢に達していたのだろう。第一子供のようにもてるすべてで一つも唄えていない。どんな手段でもいいからきちんとやりなおそうと思った。ギャーギャーとわけのわからない唄を唄ったのを最後にしばらく弾き語りを休むことにした。1月半ほどはほんとに毎日唄った。だが周囲の応援をよそに空しさばかりがつのっていたのである。そしておおいなる決心をし,あくまでもパンク精神の元なんと夜間の音楽スクールに通いだすのである。年齢はもはや27。後にも先にもこれが最後の機会と感じながら僕は20歳頃の若者達が集う音楽スクールへと飛び込むのである。


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