チャンプルーハネやん
Part・3 チャンプルーでの盟友ヨッシー
 音楽スクールにはまるで僕とはちがう音楽を志す若者でいっぱいだった。そりゃーそうだ。「パンクをやりたい!」やつで音楽学校に通うやつなんて聞いたことがない。僕だって今までそうだった。だが聞いてほしい! そういった志をもちながら具体的な「音楽家」としての成長を拒否してマニア対象のバンドマンになっていく人のいかに多いことか! そして年齢にふさわしい表現を持てずに半ば「自然消滅」的に足を洗っていく人達のいかに多いことか!

 僕はいろいろな関わりの中でいやというほどそういった人達を見てきていたし,第一これからやっていく「弾き語り」は最新技術を駆使した音楽的処理などまったく介入できない「ナマ」の音楽である。いくらパンクパンクと言ったって一応音楽という手段をつかうことにはさけて通れない。それにまったく電気というものにたよらず身一つで表現していくフォークにこれからの僕のパンクを見出していたのだから。そうした理由で僕は音楽学校に通い」だすのである。 

 この発想に至るまでの最重要な人物の存在をここでそろそろ記しておきたい。彼の名前は「ヨッシー」。「チャンプルー」における音楽の歴史においての先駆者かつ最重要人物である。「街」の音楽の歴史は彼によって定着するに至ったといっても過言ではないだろう。彼こそは文字通り「身ひとつ」でパンクを表現しえた屈指のシンガーであったと声を大にして言いたい。

 そういう意味ではプロミュージシャンのTさんや、病をたてにとって登場している僕の比ではない。マニアックなパンクを唄う僕に対して彼の唄う歌は自作のものでありその印象は例えるならば「童謡」。問答無用の親しみやすさと誰でも口ずさめるメロディーと「詩」。ハネヤンをして「彼は詩人である」と言わしめた文字通りのポエットだ。

 ともするとすぐに自己完結的な表現にかたよってしまいがちの僕は、彼との共演の中で幾度となく苦々しい思いに陥ったものである。「なんで俺はこれほどまでにパンクであろうとしているのに,あいつの方がうけるんだ! 病とともに唄っているのは俺の方じゃないか!」。

 あさはかな自意識が常に唄の中に現れていた。勝負はやる前からついていたのである。いや,勝負という発想じたい彼の中には塵一つも無かったであろう。それ以来僕は「たたきつぶすパンク」から「すべてわかちあった上で完全燃焼するパンク」へと志を新たにするようになった。

2000年12月
名護・やんばる平和まつり

彼は現在「唄うこと」を休んでしまっていて、彼のポジションが言わば僕へとバトンタッチされているが,彼へのラブコールは未だやまない。僕にしても彼が「チャンプルー」でみんなと分かちえた「唄」をまだまだ唄えていないとの思いがある。依然、僕の「良きライバル」であり「チャンプルーでの盟友」であり、「パンクロッカー」としてもあの狂気的な叫びはギター一つもった僕にとっての「目標」だ。いずれ彼も再び僕と共に唄うときが来るだろうからその時は前とは違った意味で共にバチバチやりたいものである。お互いに燃え上がることを信条としているロッカーなのだから。

 そういうわけで僕は赤子のように一から音楽をやりなおしたく「忌まわしき音楽学校」へと足をはこぶのである。約一年制の夜間方式で個人レッスンを含め週に4回。そのころは「街」のメンバーとして昼間ははりきっていたから病を抱える身としてはなかなかにハードであった。それでも暴走族の一件や不動産会社での「地獄」に比べたらどうってことはない。いつしか「病という地獄にいるんだからちょっとぐらい落ちたところで一つ下の地獄に落ちるだけ。そう思えば、この世なんて天国みたいに楽なもんだ」と思うようになっていた。けっこう過激でしょ? 

 「なんたって俺達は"ロッカー"なのだから」とはハネヤンの弁。薬の助けも借りながら「街」のみんなやハネヤン,のり子さんの奮闘を想い浮かべなんとか卒業をいたしました。そして理論や技術の一端,「音楽という手段」としての唄い方などをそれなりに身につけ再び「チャンプルー」で唄わせてくれるようハネヤンにお願いしに行くのである。 

 時は1998年の11月頃。「チャンプルー」で唄わなくなってから約1年半たっており,僕の年も28となっていた。周囲はいやおうなしに「大人」としての振る舞いを要求してくるがかまうことはない。「街」の一員としてならどういう人生を送ろうとOKだ。こうして僕は「本当の意味でのパンク」を歩みだすのだが、その間に半年間「街」のメンバーとして在籍していたことを反省点を交えてつづろうと思う。


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