オープンスペース街・日誌 |
2000年2月 |
1月 | 3月@ |
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2/29 |
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と き 2000/3/3(金)午後7時〜9時 ところ 十条台区民センター・第一ホール (最寄り駅・京浜東北線東十条) 出 演 寿(KOTOBUKI)・李政美・知念良吉 入場カンパ 1000円から、上限なし コンサート終了後 沖縄世文庫焼跡ツアー計画有り 東京都北区上十条3−29−1−301 п彦ax 03−3905−1579(火災により不通→21日回線再開) |
2/26 |
則子さん&『チャンプルー』情報 |
昨日、則子さんは、ガンマナイフという放射線治療を受けました。ハネやんが『チャンプルー』の昼間の営業が終って病院に到着した3時すぎには、治療が済んでいて、もう則子さんはベッドに寝ていました。 2時に手術室に入って、3回の放射線照射を受けて、約1時間で治療は終了したそうです。前の脳腫瘍の手術の時は麻酔がなかなか抜けなくてしばらくボーっとした状態でしたが、今回は4時前にはハネやんが買ってきた神戸屋のサンドイッチと富田さんが持ってきてくれたイチゴをベッドで一緒に食べるほど元気でした。ガンマナイフ療法って、ホント凄いなぁと思いました。ハネやんはホッとして『チャンプルー』に戻って行きました。予定通り明日、退院して前の病院に戻ります。 『チャンプルー』に戻ると、夕食会のいつものメンバープラス洋平君が集まってました。献立はアリちゃんが作った「焼きブリの大根おろしソース」にゴマ豆腐。「ブリって、ホントに美味しい!」 ヨッシー、ユッ君も遅れて登場。絶品の味を堪能しました。 今夜から、いよいよ洋平君の「ハウス街」での1日宿泊の復活。今年はじめての宿泊に洋平君は興奮気味。8時前にサポーターのヨッシー、ユッ君と一緒に「ハウス街」に向かいました。楽しい夜になればいいけどね。・・・11時半頃、『チャンプルー』の夜の営業を終えて、「ハウス街」のドアを開けたら・・・なな何と、まだ洋平君が起きていたのでビックリ。普段は9時には薬を飲んで寝るハズなのに、コタツの上にはプレイステイションがあって、きっと楽しい時間を過ごしたんだろうな。家族から離れて19歳の青春を謳歌した洋平君なのでした。 一方、もう一人、遅れた青春を謳歌しているのは佐智子さん。金と家族問題に悩みつづけて40数年。家を出て「ステイ街」で暮らすようになって「3週間と2日」。彼女は『チャンプルー』での夕食を終えて一度「ステイ街」に帰ってから、必ず再度『チャンプルー』に来る。そしてお決まりの「赤いスイトピー」と彼女が命名したカクテルを一杯飲む。「青春してるな」って感じです。佐智子さんに生活保護を! 保健婦さんよ、病院の関係者よ、福祉事務所の職員さんよ、彼女の必死の訴えをキチンと受け止めて、ホントに彼女の立場にたって生保の受給に本気になってくれよ。責任のがればかりしてないでさ。 26日、ハネやんが10時に病院に着いた時、則子さんはもう退院の準備を終えていた。11時退院の予定だったのに・・・。医者にお礼を言ってすぐに退院。駅までは坂が多くて大変なので、玄関からタクシーに乗って新宿に向かった。電車でいけば300円でいくけど、則子さんはまだ病人。5000円以上かかるかなと思ったけど、土曜で道路が空いていて3,000円ぐらいでついた。運転手さん近道をしてくれたありがとう。新宿で大好きな熊本ラーメン「桂花」を食べようとしたけどまだ開いてなくて、西武新宿駅から『街』に向かった。則子さんにとっては一ケ月半ぶりの『街』。愛犬マック、『街』のメンバー、お客さんの大歓迎を受けました。お腹が空いたので『チャンプルー』で昼食。病院食に飽きている則子さんは、沖縄そばを「ホントに美味しいね」といって食べながら、久々の地域での時間を満喫しました。休日なのに富田さんが車で来てくれたので、沢山の荷物を積み込んで、再び前の病院に向かいました。 1ヶ月の間に3度の手術を受けた則子さん。まだまだ彼女の闘病生活は続きます。でもいつでも・どこでも彼女は元気でやっています。あと10日ほどで一時退院します。そして4週間退院、2週間入院・治療・・・という生活が9月ぐらいまで繰り返されます。闘いつづける則子さんの想いをシッカリと受け止めて、『街』は前進していきますので、ご支援ヨロシクお願いいたします。 |
2/25 |
則子さん&「街」情報 |
昨日、則子さんは脳に残っている小さな腫瘍を取るために、五反田にある病院に2泊3日の予定で転院しました。 朝8時過ぎに富田さんとハネやんが病院に迎えに行って、車で1時間半近くかけて移動。車内では3人の話が延々と続いて、楽しいドライブになりました。 病院に着いて、短い棲み家となる病室に荷物を下ろしました。この日は何もする事がなくフリータイム。いったん「チャンプルー」に戻って昼食づくりをしてきたハネやんが、病院に行った時には、則子さんはいたって元気で早速、同室の人たちと仲良くなっていました。 今日25日、ガンマナイフという放射線治療があります。照射は短くて30分から数時間で治療は終了し、明日、退院して元の病院に戻る予定です。帰りは新宿によって美味しいラーメンを食べてから(何しろ病院食は旨い?!ので)、途中下車して「街」に久々に登場しようかなと思っています。 今日は練馬区のバレーボール大会があって、「街」の人たちは出払ってます。「チャンプルー」はアリちゃんとハネやんの二人で淋しくやってます。普段は、フロア係として、ジン君・アオぽん・ユカリちゃんが交代で入ってまーす。 2時になって「チャンプルー」の昼間の部が終わったら、ハネやんは病院に、アリちゃんは夜のみんなの食事作りの仕込みにいってきます。 今年になって停止していた洋平君の「ハウス街」での宿泊が再開します。サポートするのは、ナナなんとハネやんの息子のユッ君とサブとしてロックンローラーのヨッシーが担当します。ヨッシー、どんな顔をして洋平君と一緒にお風呂に入るのかな?? 想像するだけで嬉しくなってしまうね。 |
2/24 |
「ぺちゃんこ日記」 |
2月7日 今日も一日無事に終わろうとしています。「街」に来てよかった。みんな心のあたたかい人ばかり。もうすぐ、ミーティングが始まり、閉店の時刻が近づいてきました。明日は休みです。でも、やることは山ほど。決して、平坦な道ではありません。これからも「街」ではありません。これからも「街」で若い人達にまじって、頑張りすぎない程度にやりたい。今日一日頑張れた事はよかった。明日はどんな人生が待っているか知れないけれど精一杯やりたい。 2月8日 今日、大泉学園へいってきました。車椅子にのった男性につきそって中年の女性がいました。なんで、声をかけてあげなかったのかと後悔しました。階段の下で立ち往生していたのです。大反省です。 2月9日 今日は疲れている割にはよく働けたと思う。明日あたり、疲れがどっとでそうな予感。今日は粗大ゴミを橋の上に並べた。軍手して、軽いのばかり引き受けて往復した。お昼、チャンプルーでおいしいもの食べて安心したのか、お茶当番のことも忘れてひとねむり。思い出して目を覚ます。心のすみに今日はお茶当番だということがあったので起きれたのだと思う。 2月15日 外来に行きました。病院の玄関先の梅の花が五分咲きでとても綺麗でした。 2月22日 今日は仕事が休みなのにどういうわけだか、早起きし、コインランドリーへ洗濯に行った。帰ってきてから洗濯物をほしてから、買い物して昼は餃子と焼きそばを食べて、昼寝した。起きてからおやつにエクレアを食べて、午後銭湯に行く。夜はカップラーメンにちょっと豪華なサラダを買ってきたのでそれを食べた。夜食に雛あられ、カキのたねもどきを用意して全部食べるわけではないけど・・・。 長野からの手紙 2月11日にチャンプルー街で行われた李政美ライブに遠く長野からこられたMさんご夫妻。そのまま、ライブが終わってもチャンプルーでのごちゃまぜ雰囲気をたのしんでハウス街に泊まっていかれました。敦子さんからあたたかいお手紙が届きました。 みなさん、お元気ですか? ただの東京との往復では味わえない、本当に心に残る一夜となりました。親切にしてくださったみなさんのおかげです。感謝しています。ありがとうございました。 私たちにとって初めての沖縄料理でした! と〜ってもおいしかったです。またおじゃまできたらいいなーと話しております。それではみなさんお元気でおすごしください。 奥様の病気がよくなりますように 2000年2月15日 諭、敦子 より |
2/22 |
「生きることの意味」ハネやん 週刊「街ニュース」376号(2000.2.22発行) |
連れ合いが入院してから一ケ月以上がたった。その間に患者さん、家族のさまざまなドラマを見てきた。病との必死な闘い、退院、死、そして誕生。僕はずっと「生きることの意味」を考えてきた。 先週、連れ合いと同室のMさんと知り合った。彼女は今、癌・糖尿病と闘っている。それにもかかわらず、彼女はとても明るい。連れ合いのベッドの横で1時間以上も「生きることの意味」について語りあった。僕はとても心が救われた気がした。僕の連れ合いもそう感じたはずだ。 昨日は、陽子ちゃん・アリちゃんも面会に来た。あまりの楽しさに、大いに笑いながら、予定の面会時間を過ぎて話し込んでしまった。話の中で彼女がお礼を言いたいと言った。なんでも前回僕たちと話した翌日、糖尿病の検査値がドーンと下がっていたと言う。「僕の高血圧値だって、怒った時には上昇する。人間は感情を持った生き物だから、楽しい経験をしたあとは検査値が下がることって、あるかもしれないな」と思った。 ようこ 21日の午後からアリちゃんと私(ようこ)で彼女に会いに病院に行きました。そこで、やはり病と闘いながら自分を生きているMさんを則子さんが紹介してくれました。則子さん、ハネヤン、ありちゃん、私の4人は輝いて生きている彼女を囲んで話をしました。彼女に会って感じたこと、私たちにとってとても大切なことだと思いました。 病になってからの家族や人との関係で自分が感じる事など、いろんなことを話してくれました。彼女の強烈で明るいキャラクターに私達「街」一行4人も、圧倒され、うなったり、笑ったりしました。へらへらした笑いではなく、心から笑えました。 あり Mさん、とにかく人間味あふれる人で、一緒にいて愉しくてしょうがなかった。病院で病気と闘いながらも、そこでの新しい出会いを自分の人生にとって大きなことだと感じられる。僕も日々の新しい出逢いを、もっと大切にして生きていきたいと思った。 2月22日(火)の街 今日は、則子さんの友人で児童文学者の西山さんが研修に来て、一緒に一日すごしました。 ミーティングでの彼女の感想は「居心地がよかったです。すぐに馴染めて、自分にあっているなぁと思いました。自分のペースで過ごせました。楽しかったです!」 ・・・そんなミーティングが終わった後、西山さんが一言「ここって、作業所なんですね」・・・みんな一同爆笑!「説明していなくってすみませんでしたぁ」だけど、大切なのはまず、その中で共に過ごして感じる事、自分で感じる事だと思います。彼女は今日一日過ごして、そういうことに関係なく、一人の人間として、人が集まる場としての「街」を感じてくれたのだと思います。 さぁ、夜は「チャンプルー」で知念さんや、もっくん、もろさんが集まって、6月3日のイベント「すべての命のチャンプラリズム」の実行委員会でーす!こちらも、楽しみ!!!!! 2月11日に「チャンプルー」でライブを行ってくれた李政美(いじょんみ)さんからのFAXが届きました! ちゃんぷるー/ハネやん他スタッフのみなさま 先日はお世話になりました。 李政美(いじょんみ) |
2/19 |
はじめまして、大阪府の精神障害者小規模作業所「のぞみ共同作業所」です。 つきましては、相互リンクをさせていただけないでしょうか? これからもお互い、がんばりましょう。 のぞみ共同作業所のホームページに行きます |
2/17 |
沖縄世(ゆ)文庫 放火で半焼 重大な被害に負けず再建へ |
2月13日、午前4時頃、沖縄世文庫のベランダから出火。火はベランダからサッシドアのすき間を通り、畳の部屋へ入り、そして天井を伝って上階(4F)の部屋の畳を焦がすまで燃え上がった。午前4時過ぎ頃、近くを通りかかった若者と近隣の住人達が初期消火をする一方で消防署へ通報し、消火活動によって幸いにも大火災になる前に消し止める事ができた。 しかし、事務所の中は、火と煙のススと消火の水で惨澹(さんたん)たる状態になり、貴重な本・写真・ビデオ・テープ、その他の多くの資料が被害を受け、パソコン・テレビ・電話なども使えなくなってしまった。出火原因は、ベランダに置いてあった物への放火である事は明らかだった。この時期に何故、沖縄世文庫が、という思いに身がふるえる思いがした。 今から6年前、植樹祭出席で天皇が沖縄訪問する直前にも、沖縄世文庫のベランダ側の窓ガラスが割られ、そこからホースで水を流しこまれ、畳に墨汁をバラまかれた事件が起こった。そして三階の壁には「天皇万歳、上十条2・301号室を追放するか」という落書きがあった。 沖縄世文庫は、1978年、沖縄研究会の事務所としてスタートして以来、白保の海を守る闘い、一坪反戦地主会関東ブロック、海邦国(うみのくに)国体への天皇、自衛隊の参加に反対する沖縄人運動、知花昌一さんを支援する運動など、首都圏における沖縄闘争の拠点事務所として続いていただけでなく、93年からはエスニックコンサート、95年からは命どぅ宝ネットワークの連絡事務所として、数えきれない多くの御万人(民衆)に使われてきた。 そして、この時期、普天間基地の名護移設をめぐって首都圏での闘いが準備され、7月の沖縄サミットを前にして多様な行動が予定されている中で、再び、沖縄世文庫を狙った悪意極まりない犯罪行為が行われたのである。 命どぅ宝ネットワークは、この4月28日「沖縄かがやけ、御万人の世紀にむかって」という第10回命どぅ宝・平和世コンサートに1000名結集をめざして、動き出したばかりだった。チラシが出来上がり、 しかし、こんな犯罪に負けるわけにはいかない。焼けこげた本、CD、写真、その他の資料の一つひとつを整理しながら、その一つひとつにこめられた想い、怒り、希望が私たちに伝わってきた。焼けねじれたカメラ、人形。水浸しになった写真、紙の一枚一枚。 それらの全てが私たちを励まし、負けてはいけないと呼びかけているような気がした。 沖縄戦で全てを失った御万人が灰じんの中から立ち上がり平和の道を切り拓いてきたように、私たちも事務所を再建し、首都圏における沖縄の運動、エスニックコンサートをはじめ、先住民族との出逢い・交流、変革をめざす運動を進めていく決意を固めている。 最後に、多くの先輩、友人、仲間たちの団結・ご支援を心からお願いし、共に21世紀を御万人の世紀に変えていきたい。 2000年2月13日 命どぅ宝ネットワーク |
2/16 |
まことさん(「街」)の詩でーす。 宇宙のかなたにアメリカという星を作り そこに大統領という人々を住まわせる その星は血でできている 差別されるインディアンと黒人、 ベトナムで死んだ無名の若者、 そして未帰還兵の血でできている 彼等は正義の名のもとに、その星に機関銃をうちまくる そして笑いながら、沖縄という星に血まみれの手で握手しようとしている 沖縄は逃げたがるのだが、原爆で死んだ人々の足跡のぬかるみで逃げられない 大統領という人々は言う 「さあ、一緒に戦争しようぜ。簡単だ。ドラッグを打って、ハイになろうぜ」 親愛なる大統領よ、あんたは世界の警察なんだろう それならあんたのした正義の戦争で増えた難民をなんとかしろよ! 沖縄のクレイジーな兵隊をなんとかしろよ! そして、あんたが戦争の隊長になれよ! そして本音を言えよ! 「日本なんてどうでもいいって」 |
2/15 |
6.3 すべての命のチャンプラリズム・コンサートに向けて (毎週1回、更新していきます) |
僕は東京・武蔵関にある「チャンプルー街」という沖縄料理店でシェフをしている。セブンスローズは、ここで3年前から月に数度ライブをやっている。
私事ながら今年の1月、「チャンプルー街」の名物女将で僕の連れ合いが入院した。手術前の彼女に向けて、当日居合せた一人一人が彼女の手術の成功を祈って語った。そのビデオは翌日彼女の元に届けられた。一人ひとりの熱い想いが彼女に伝わった。その場面に立ち会えなかった人も、そのビデオを見て涙を流した。セブンスローズの歌は、病と闘う彼女への応援歌となった。 沖縄、在日、キーサンをはじめとするミュージシャンが、21世紀(地球史上はじめて、すべての命が大切にされる時代)を創造しようと集まる。勿論セブンスローズは沖縄料理店「チャンプルー街」を代表するバンドとして参加する。そこでセブンスローズは、不器用だが「心情あふるる誠実さ」を武器に21世紀への熱い想いを謳い上げることだろう。いや「武器」でなく、喜納昌吉の言う「すべての武器を楽器に!」新しい時代を疾駆するはずである。 |
2/14 |
都知事様へ/作詞・作曲 ヨッシー(吉崎健) |
石原さんよ 都知事様よ 知らないようですから教えてあげましょう 「すべての人に人権があるんです、人格がある!」 No No No No 石原 No No No No 石原(繰り返し) No 都知事様 Waaaaaa 石原さんよ 都知事様よ いいこと教えてあげましょう 軍隊を持たなきゃ 世界中の人に尊敬されて 平和で豊かな国が造れるんです コスタリカ! No No No No 石原 No No No No 石原(繰り返し) みんながあなたの事をファシストだと言ってます 本当ですか? No No No No 石原 No No No No 石原 No No No 福祉切り捨て No No No ナショナリズム 気弱な僕ですけれどNO!と言えました No No No No 石原 No No No No 石原 No No No 核はいらねぇ No No No あんたはいらねぇ 気弱な僕ですけれどNO!と言えました 誉めてください 都知事様ー! |
2月11日 李政美(いぢょんみ)さんのライブ!! |
昨日、沖縄料理店「チャンプルー」で李政美+矢野敏広(ギター)&知念良吉のライブがあり50人が参加しました。 入院して1ヶ月たった則子さんが、外出許可をもらって久しぶりに「チャンプルー」に登場。ライブ開催の挨拶をしました。 最初は「チャンプルー」や6・3コンサート実行委でお馴染みの知念良吉さんがしっとりと歌を披露してくれた後で、いよいよ李政美さんの「チャンプルー」デビュー。「わたしはうたう」「京成線」「ありのままの私」など聴き親しんでいるナンバーを美しく通る声で唄いました。 途中から、朝鮮の打楽器を叩きながら心に染みる歌を唄ってくれました。 ライブの後、お客さんで来ていたカーミーズ(沖縄出身の亀谷さんご夫妻)、ヨッシー&アリちゃんの6・3コンサートに出演する2組が演奏しました。 「病院に戻っても興奮して眠れなかった」と則子さんが言うような心が洗われる素敵なライブでした。李さん、また来てくださいね。 以下は、参加者の感想です。 たけとし オカリナも綺麗、声も綺麗、とても感動しました。 早まるるん さいこーー!!!! CD買いました。また聞きにいきたいです! ようこ
ぢょんみさんの歌を知ったのはちょうど1年前でした。チャンプルーで流れる音楽の中にしなやかだけど、力強くて、心にくぅーっとくる歌があって・・、 洋平(電車大好き。通称、車掌)「京成線」の歌がよかった。いい声だなぁと思いました。 川田 文子 風は笑う・・・川がささやく・・・ 揺さぶられました。野太い声でうたわれる深いことばが刺激的でした。でも、私にはなぜか、ことばの意味を解せない韓国の唄や沖縄の唄がしみ入りました。 仁 最近調子悪いんですけど、ライブを見たらスカッとして良く眠れました。 ちゅー 歌って心でうたうものなのだなぁ・・・としみじみ感じました。ぢょんみさんの唄は上手いのはもちろんのこと、それだけでない、強さややさしさ、いろんなものがこちらの胸にドーンと響きました。ほんとうに素敵な歌をありがとうございました。 みやこ(チャンプルーの舞姫)よかったです!! ぺちゃんこ 素晴らしいライブをどうもありがとうございました。息子と二人、大勢の人の中で、ただ素晴らしさに酔いしれておりました。入院中だけど外出してきた則子さんとも出会えて、その元気さに安心しました。これからの人生の糧になりそうな夜でした。 |
2/8 |
ヨッシーが、アリちゃんが唄う。みやちゃんが、イチローさんが、ミッキーが踊る。 2月5日(土)、大泉の勤労福祉館2階大会議場で、「2/5 戦争に 協力しない! させない! 練馬ネットワーク結成集会」が開かれました。「街」は1時に店を閉めて、「チャンプルー」は1時過ぎに閉店して車2台、原チャリ(ハネやん)、バスに乗って12人が参加しました。 ◆記念講演-こうすればできる地域での戦争非協力- ●林 茂夫さん(評論家)、●新倉裕史さん(非核市民宣言運動・ヨコスカ) の後、いよいよヨッシーの登場。 「ノーレイプ・ノーWAR」「都知事サマよ」「俺は売れないロックンローラー」を熱唱。イチローさんが巨体を躍らせて叫び・踊り、そこでアリちゃんの登場し「総理へ」をヨッシーとデュエット。 会場内は大興奮しました。後で聴いた話では、講演者の人も「良い歌だ」と言ったとか。 筆者はここで都合があって会場を去ったが、次の沖縄・三線の演奏では、ミヤちゃんが、ミッキーが、「街」の人たちが大いに踊ったそうです。 ふと6年前に同じ場所でやった「差別を考える-差別まつり」を思い出しました。あの時は「街」シンガーズが、「すべての人の心に花」とハネやん作詞の「ニッポンなんて」を唄ったけど、その時に比べて「街」の内容が豊かになったなぁとつくづく思いました。 |
2/5 戦争に 協力しない! させない! 練馬ネットワーク結成集会 |
昨年の5月、周辺事態法が成立しました。この法律によって、自衛隊だけではなく、自治体や民間企業も、アメリカ軍が行う軍事行動への「協力」を強制されかれない状況になりました。 如何なる理由があろうとも、私たちは戦争に協力したくありません。また私たちが働き、暮らす練馬区にも、東京都にも、戦争への協力しない、させないために、練馬区への働きかけや、自衛隊基地の調査、また海外派兵や軍事行動などに反対の声をあげること、さらに講演会やコンサートなどのイベントを通して、反戦・平和・戦争協力を広く区民にアピールしていくことなどなど・・・・個人や団体がそれぞれが得意なこと、やりたいことをお互いに協力しあって運動にしていく・・・・そうしたネットワークをつくりだしていきましょう。 いつ:2月5日(土)午後1時半から どこで:勤労福祉会館(大泉学園駅南口)2階大会議室 ◆記念講演 -こうすればできる地域での戦争非協力- ●林 茂夫さん(評論家) ●新倉裕史さん(非核市民宣言運動・ヨコスカ) ◆参加費:500円 連絡先:3825−8428 ヨッシーも唄うよーっ!! ハネやん、「街」の代表の小山さんも呼びかけ人になってます。 彦(げん)一彦さん(画家)からの手紙 週刊「街ニュース」第366号(2000年1月24日発行) いつも元気な則子様へ 先日、御店で富田さんより入院のことを聞き、やはりすこし驚きました。御主人の心労の事も 同時に思われます。この病院には、ちょうど10年前の桜の頃、私もお世話になった経験が有ります。S病院と聞いた瞬間、その当時の事事が想起されて参りました。当時42歳の私は連載をいつも5本持っておりました。他に様々の仕事が次次に参りましたため、受けられるだけは受けてみるかと言う思いも有り応じていました。そして、倒れたのです。生まれてはじめての体験でありました。病院に行くとその場で入院という事が分かっておりましたが、当時、沖縄の八重山に遊ぶ計画を立てておりフライトがやっと取れて、私は好きなあの島に行き、あの島で死んだとして も別に良かろうという気持ちがあったのです。私の遠い先代は南方経由でこの島に渡来した事はまちがいないように思います。沖縄、とくに八重山の島々におりますと私は非常な懐かしさを体感するのです。当日、新宿からリムジンで羽田へ向かう途中、東京の朝風色が白くかすんではるかにみえました。視力も弱っていたのですね。十八空港に着くとブーゲンビリアの赤に迎えられましたが、立っているのがつらい様な状況でしたので、まず空港で丈夫なステッキを買い、旅の途中それをついておりました。石垣島、竹富島、イリオモテ島に過ごして、大好きな果物を毎日執っておりましたが、体にとどまらず出てしまう様な状況でした。体重もどんどん減ってゆく様でしたが、アダンの小影に座って海を見ておりますと、やはり来てよかったなという思いがありました。 帰って病院に行くと即入院。そのまんまベッドに移され、私は3日間位、こんこんと眠りつづ けたようです。持参したのは、ポケットの愛用のナイフ一本でした。 人はある時期走りつづけ東奔西走せねばなりません。人のため、自分のため、あるいは社会をよりよくするため戦わねばならぬ時も有るでありましょう。それは人それぞれの上に持つ使命であり、その人に課せられた宿命であるかもしれません。人は誰にさせられるのでも無く自分が自分で描いたとおりのシナリオを生きて参るからです。怠惰な者は生まれつき怠惰であり、勤勉な者も生まれつきであります。両者が入れ替わる事は絶対に無いのがこの世のことわりでもあるのです。心に傷を持つ人人は、自分に持つというよりもその背景において既に持っている人達が大半であります。たとえば人殺しをする程の者は、人を殺す前に、自分が世の中に殺される程の目に遭っている人達なのです。そして、そうした世の中が無くなる様、人は個人個人が努力して参らなければなりませんが、地球という星は、まだきっと幼くこの先百億千億年くらいはかかるのかもしれません。私はそういう風に見ています。長い永い時間が必要でありましょう。人間は、その中で転生してゆくので有りましょう。前進に向けて。 私の所得は、当時の1/5程になりましたが、私は実に満ち足りております。私も則子さん達夫婦の様に力のかぎり生きて来た人間ですので。御二人のことがある程度は分かります。そして、大変なことをはじめたものだなあ、と思う事があります。しかし、女性が明るい職場は神様の御加護の有る所と申します。私は、お店に伺う度にそれを祈念してきました。 昔の人たちは病を得るという風に申しました。得るという形容で有るかぎり、則子さん自身にも、なにか思い当たることが有るかもしれません。まず、こうしてあられること自体、自分の時間がはるかに多く得られているはずでありましょう。人生には孤独の中で体得する時間も大切であります。焦らずに、どうか、静かな心持ちで新しい御自分を立て直してほしいと思います。すぐ御見舞いにとも考えましたが、きっと大ぜいの方方があることと思い、伺って月並の事を言うよりも、行かぬのも御見舞いの一つと考えまして、書面に致しました。日を改めまして、出かけるつもりであります。入院中はいろいろの事を考えず、御自分の事のみを集中して考え、リラックスして、ドクターや看護婦さんを心から信頼して、御任せになることが大切です。また元気な姿で店にもどられる日を祈念しつつ、御見舞いと致しました。 一彦あたたかく。 不二 命なりわづかの笠の下涼み 村尾さんからのお手紙(なずな薬局) なずな薬局は陽和病院の隣にある調剤薬局で、毎月の賛助会費や様々な面で「街」を支えてくださいます。 安西さんからお話しをうかがい、驚いています。無事手術を終えられたことは何よりです。 ゆっくり、ゆっくり養生をして笑顔を見せてください。則子さんの日頃の活動の大きさに改めて敬意を表し、お見舞いの気持ちをお届けします。 彦さんや村尾さんだけでなく、みなさんのあたたかいお気持ち、ありがとうございます。 |
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基地をおしつけられた沖縄
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出演予定者 沖縄/知念良吉とパラダイス・ドンドン+エイサーしんか、カーミーズ、 在日関係/李政美(イ・ジョンミ)、 キーサン関係/ユニーク・バンド(共同作業所・クレイジーキャッツ)、えばっち&前進友の会 チャンプルー(武蔵関)/ヨッシー(吉崎健)+アリちゃん、セブンスローズ、アルトゥーロ(コスタリカ)、 かけこみ亭(谷保)/花&フェノミナン、 おおまきちまき(関西)、佐々木恵(三線)、竹内バンド、福島泰樹(短歌絶叫詩人)、その他。 6/3(土)上野水上音楽堂、午後2時開場・前売2000円 当日2500円 則子さん情報 1/31日、昭和病院で則子さんの2回目の手術(子宮筋腫)があり、無事、終了しました。バタバタしていて連絡が遅れてすいませーん。 |
2000年2月2日 9月1日、在留特別許可を求めて、出頭した5家族、2個人のうち、2月2日、午後1時、イラン国籍のFさん一家とビルマ(現・ミャンマー連邦)国籍のMさん一家の2家族、6名に東京入国管理局第二庁舎にて法務大臣の裁決が渡されました。 本日の裁決についてはAPFSのスタッフと一部のマスコミ以外に知らせていなかったにも関わらず、入管の前にはたくさんの報道陣が詰めかけ、入管側はこれまでにない厳重な警備体制を敷いてFさん、Mさん一家を待ちうけていました。APFSからも約10名のスタッフが駆けつけましたが、吉成代表と弁護士以外は門の中に入ることすら認められず、入管前は異常な空気に包まれていました。 先週来の報道により、21名の結果は、ある程度、予測はしていました。一家族が許可、しかもこれまでの在留特別許可の基準を満たしていなかったFさん一家に許可が認められたことは、27万人の超過滞在者にとっても新しい道を一本作ることができたことであり、APFSとしても大変喜ばしいことであるには違いありません。しかし、その一方で一家族3名の訴えが届かずに、不許可となってしまったことは、出頭前から行動を共にしてきた21名にとって、心の痛い、非常につらい結果となってしまいました。 許可が認められたFさん一家も、Mさん一家の不許可の知らせを受け、さらに残る15名が2月2日現在呼び出しを受けていない現実を思うと「手放しでは喜べない」と、その複雑な心境を語っていました。APFSのスタッフもMさんの妻が悲しい気持ちを必死で抑えている姿に胸がしめつけられるような思いでした。収容されているMさんと同日夕方、吉成代表、ビルマ人協会会長のソウウィンさん、Mさんの妻、長女の4人が面会をした際に入管の面会場所でガラス越しに会う父親の姿に泣き出す長女の姿は涙を誘うものでした。 Mさん一家は本当に残念な結果となってしまいましたが、不許可になった家族への入管の処遇には変化が見られました。通常、こういった場合、一家3人がそのまま収容されてしまうのが常だったことを思うと、妻と子に仮放免が認められたことは、入管が子どもの権利等を考慮したことの表れといえ、わずかながら入管の姿勢にも変化が見えているといえるでしょう。 |
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