オープンスペース街・日誌 |
2000年4月@ |
3月A | 4月A |
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4/15 |
沖縄行動/まよなか・しんやさんからのFAX |
沖縄のフォークシンガー、まよなか・しんや(大城信也)さんから電話が来ました。「街」が5月、20人で沖縄へ行くということを話すと早速FAXで予定送られてきました。 沖縄の動き(5月) 10日 まよなかしんやランチパーティーコンサート 13日 まよなかしんや 満月ライブ 14日 浦添キャンプ・キンザー包囲デモ/5.14 平和集会(一坪浦添B) 15日 沖縄サミットに反対するデモ&集会(実行委員会) 16-21 韓国 平和・人権ツアー 23日 一坪反戦地主裁判(那覇)地裁 「街」は14日、15日の行動に参加したいと考えてます。 14日 浦添キャンプ・キンザー包囲デモ/5.14 平和集会 15日 沖縄サミットに反対するデモ&集会 沖縄サミットを利用した基地の「県内移設」押し付けに反対し、軍港建設を問う 5・14市民行動に参加を! 今年も屈辱の「復帰」記念日5月15日がやってくる。28年前ヤマト政府は強引に、沖縄(琉球)を再併合し、今また新たな米軍基地をワッター沖縄人に押し付けようとしている。 今年の5・15は20世紀最後の5・15で、21世紀の沖縄、日本、そしてアジアの明日を切り開く重要な5・15である。 軍港を問う! 市民行動実行委員会(代表・黒島善市)は、5・15に向けて下記の日程でキャンプキンザー包囲デモと平和交流集会を開催。多くの皆さまの参加をよびかけます。 浦添ピースウォーク 5月14日(日)AM11:00浦添市役所前集合 平和とくらしを守る県民大会 AM13:00 宜野湾野外ステージ 住民運動から学ぶ 浦添市民平和交流集会 PM6:30 浦添市社会福祉センター 地元浦添の他、名護・宜野湾・白保・反戦地主会・1坪反戦地主会・1フィート運動・沖韓連帯・アイヌ民族と連帯する会・満月まつり・平和市民連絡会などからのメッセージを予定。後半は参加者皆さんで大交流会をしますので飲食物の差し入れや三線・ギターを持っての参加大歓迎します。 主 催 軍国建設を問う!浦添市民行動実行委員会 連絡先 一坪反戦地主会・浦添ブロック |
4/14 |
東京「病者」・地域Hotライン 定例会 |
昨日、「チャンプルー」で東京「病者」・地域Hotラインの定例会が開かれました。 参加団体は、新松橋亭同人、ほっとスペース八王子、「街」、こどく館、ゴキブリ従事者の広瀬さん、横浜の中島さんなど20人近くが集まりました。*詳細は、筆者が参加していなかったので、後日報告します。 夜、何人かが残って「チャンプルー」の夕食会に合流。海鮮丼にシジミ汁、グレープフルーツなどなど。 その後の話し合いの中で、5月の仙台の精神神経学会の話しが出ました。「街」からは、アリちゃん、陽子ちゃん、そしてヨッシーの3名が代表派遣することが決まりました。「街」は5月14〜16日、沖縄に行くので強行日程になります。また、東京「病者」・地域Hotラインからの参加者には、派遣カンパをしようという話にもなりました。 次回は、臨時定例会で4/19に開かれます。 |
4/13 |
6.3 すべての命のチャンプリズム・コンサートの出演者紹介 |
紹介はココです。 http://www1.plala.or.jp/akahane/6.3.html 福島泰樹(絶叫歌人)とSlow Danceを追加しました。 今日は、「街」で東京「病者」・地域Hotラインの定例会が開かれます。 |
4/12 |
アリちゃんの沖縄・辺野古 奮戦記 4/10(月) |
海風を訪ねて人がやってきた。東京で演劇関係の仕事をしていて、どこからかここの事を聞いてきたのだろう。成田さんは、今日に至る過程を話しはじめた。4年前に辺野古に基地移設が決まった時、人々はなぜかしーんと静まり返った。誰も基地の事に触れない。自分もなぜか言えない。隣の建設業をしてる人ともずっと知り合いだが、その事について触れられない。 おかしいぞおかしいぞ、うーんという気持ちが、自分の中にたまっていく。生まれて初めて、社会的圧力というものを体感した。それから初めて、その事について話せたのが3ヵ月後。3年前の3月に、海風に人が集まり、初めてみんなで話し合い、10区の会ができた。 2、3年前は、基地について、市からの説明などあったが、昨年暮れからまったく説明がない。昨年12/27に説明する約束したのに、3、4ヵ月たっても、いまだに説明しようとしない。徹底的に無視しようという作戦。 三沢基地の講演会が瀬嵩公民館であった。昨日5時間に及ぶ宣伝をした。その割りにあまり来なかった。水越さんの口から出る三沢基地の実態は、壮絶だった。F16の飛ぶ様は、空を真っ二つにするかのよう。青森は寒い為、窓は2重、3重窓。それに、国からの補助で作った防音設備にもかかわらず、昼間はテレビの音すら聞こえない状態。 「住民が出ていくように、いやがらせはありましたか?」という質問。そんなものはない。爆音があれば人としての生活はできない。この町の人々は、神社を残して、姿を消した。そして、そこに残された記念碑の言葉にみんな息を飲んだ。 「・・・断腸の思いで祖先の眠る霊園と鎮守の森産土様(金刀比羅神社)を残し、先人の労苦を偲び、感謝の念を捧げ、苦難相楽の道を歩んだ四川目を去る・・・寝食を忘れ御尽力下された方々に感謝を捧げ、新天地にて共に栄える事を願い、移転者各々が悲喜交々の願いごとをし、ある時は大漁旗をなびかせた往時の思いでの地として残した四川目住民の信仰の地、鎮守の森に碑を建立す。そして、この事実を子々孫々に伝える。・・・」 自分達の未来の姿がそこにあった。沖縄はさらに差別されている。移住しようにも、家は国に安く買い叩かれ、保証も何もない。過去の実話から、そう話す人もいた。三沢でさえぎりぎりの保証だった。でも、みんな出ていかざるをえなかった。 講演が終わり、海風で打ち上げ。水越さんの原点は、1950年代、立川の基地反対。測量に来る機動隊を、人々が輪になって手を組んで、阻止した。機動隊は、大きくて、オニのように見えた。それが、人々を一人一人引っこ抜いてく。しかし、ひっこ抜かれるたびにまた一人輪に入る。最後には、口をあけないと、前か後ろがわからないほど真っ黒になった。そして、国は測量をあきられた。死んでもという気持ちだった。この人はその後50年もの間、それを貫いてきている。ものすごい人だ。話しもとてもわかりやすい話しで、伝わった。 4/11(火) 水越さんを東恩納さんが車であちこち案内する。ついていった。まず、ジュゴンの見える丘に、その後船にのせてもらい、うまんちゅ祭の時に平和の碑の火を持ってきてここのドラム缶へうつしたという長島という島に。そして、キャンプシュワブの海へ。クラブなどから辺野古の海へ垂れ流しの排水溝を見せてもらった。 ハンセン病の施設、愛楽園へ、成田さんの運転で宿のみんなで行く。糸数宝善さんに話しを聞く。世間から石を投げられ、家族からお前さえいなければと言われ、自分も自分がいなければと思い、家を離れる。人の目を逃れ、やっと生きる場所を見つける。ハンセン病の人たちにとって、愛楽園は人の目を気にせず、やっと人として生きられる安住の地だった。しかし、そこでは断種が行われ、病気になれば、医者は目以外の全てを覆った格好で、長靴でまさに「土足」で家に上がってくる。らい予防法が自分達を苦しめてきたと同時に、愛楽園があったからこそ今まで生きてこれた。とても複雑な心情。 しかし、今では介護やスタッフも整い、食事も持ってきてくれ、満足しているという。おばちゃんは料理を作ってもてなしてくれ、手作りの貝の鈴をくれた。くったくのないいい人。ただ普通の生活できる事に幸せを感じる。その事に胸が苦しくなる。今日の感想は? と聞かれたが、その体験をした二人が、僕の目の前にいた。それしか言えない。 〒905−2266 沖縄県名護市瀬嵩182 |
4/11 |
全生園でのお花見・交流会 |
4月9日(日)ハネやん、則子さん、みやちゃん、ハッチー、ちゅう、ようこの6人で、東村山市にあるハンセン病の人の療養施設「多摩全生園」にお花見に行きました。 満開の桜の下で、みなさんが持ち寄ったおいしい料理を囲んで、練馬人権センター、練馬区職労、部落解放同盟、市民運動家など40人くらいの人が集まっていました。そこには、ハンセン病に対する国のとった政策に対し訴訟を起こした、森本さん、國本さんもいらっしゃいました。お二人には去年の10月に「街」や新松橋亭同人も参加した「ハンセン病差別を知る練馬の集い」で、お話を聞きました。 ハンセン病とは「らい菌」による慢性感染病ですが、感染力は極めて弱く、1943年からは薬の開発により完治する病となりました。しかし、1953年、改正された「らい予防法」でも国の隔離政策は続けられ「らい病」は不治の病、伝染する恐ろしい病という偏見と差別はなくなりませんでした。入院、療養という建前で、隔離をしてきました。 1996年、「らい予防法」は廃止されましたが、「らい予防法の廃止に関する法律」には廃止の理由が書かれておらず、国はその点をを明らかにしないまま、この法律によって患者の人権を奪ってきたことを、隠蔽しようとしています。ハンセン病の人達が死に絶えてしまうのを待って、この事実を歴史から抹殺しようとしています。森本さんや国本さんたちはそれではいけない、と闘っています。 全生園の敷地の中に、全国で一つしかないハンセン病資料館があります。1時間あまり、森本さんが丁寧に解説付きで案内してくれました。ハンセン病は「らい病」と言われてきました。「癩」という漢字は「病だれ」に「頼る」という字を書きます。それは「病」を利用して、人に頼るという意味です。そして「らい」という言葉はラテン語の「卑しい人」という意味の言葉を訳したそうです。だから「癩」と呼ばないで下さい。「大切なのは中身で、言い方は関係ないといわないで下さい」と怒りを込めて語る森本さん言葉が胸にしみました。 この「らい」という言葉によって苦しめられてきた人達がたくさんいます。国本さんに満開の桜の下でお話を聞きました。74歳になる國本さんは15の時、全生園にきました。その時係りの人が入院といわず「収容」といったそうです。12畳の部屋に8人で暮らし、天井の隙間からは空が見え、砂埃が舞い込み、廊下はいつも砂だらけだったこと、半自給自足の生活、子孫を残すことを許されず断種させられたこと、所帯を持たされず女性の部屋(ここも8人部屋)に通い婚をしていたこと、医者ではなく看護士が治療に当たっていたこと、1本の注射針で何百人もの患者の注射をしたこと、園内でしか使えないお金があったこと・・・ 聞けば聞くほど、驚きと怒りが胸の中に込み上げてきました。この中を生き抜いてきた人が今私の目の前にいる、私たちが物にあふれて、豊かをさを装って生きている時代は、何なのか、いろんな思いが頭の中を回っていきました。そして、国本さんに、6月3日、「すべての命のチャンプラリズム」でお話をしてもらうようお願いしました。たくさんの人に知ってほしい、考えてほしいからです。彼は、快く引き受けてくれました。お花見の桜も良かったけれど、国本さんとお話ができたこと、とっても嬉しかったです。 推薦します/日本が武力をもって強制的に併合した朝鮮民族に対して、いかなる無礼、迫害を加えたか。著者・国本衛(李衛-イ・ウィ)氏はさらに少年の頃ハンセン病を体験、非科学的な『らい予防法』に苦しめられました。東京地裁に出された国家賠償請求訴訟の原告です。真実を学んで、偏見・差別から解放されましょう。お互いに『生きて、ふたたび』(岡部伊都子) 『生きて、ふたたび』(隔離55年-ハンセン病者半生の軌跡) |
4/10 |
アリちゃん沖縄・辺野古 奮戦記 |
4/8(日) 夜は新潟巻町の原子力発電所住民投票をつくっていったさかいさんの講演が、瀬嵩支所であった。巻町の主婦たちが「自分の子供が安心して暮らせる町をつくりたい。」という思いから立ち上がり、女パワーで住民投票など実現していくエネルギーあふれる話しだった。 巻町ではハンカチ運働をやっていて、みんなが土地を提供して自分の想いをハンカチに書いてロープにつなげてあちこちにたらす話しを聞いた。 そこで、とまさんというアイヌの人にも会った。有珠山の噴火の事で一時北海道へ帰るらしい。北海道で原発反対していて、すかっと話しをする人で、男らしい人だ。 すべての武器を楽器に委員会という、喜納昌吉さんの会が、沖縄で7/17-7/23、東京でも7/20に日比谷野外音楽堂で「ニライカナイ祭」というのをするそうです。僕も「街」の事や、6/3の事話すチャンスあったんだけど、言えませんでした。すいません。 今日も海と風の宿には、人生に悩む若者が訪れてきた。話しをするうちに、「街」やここのような何でも話せる場が必要なんだとあらためて感じた。人が人として出会える場をもっと作っていきたいという話しでもりあがる。 ここの近くに愛楽園というハンセン病の人の施設があって、来週、成田さんにつれてってもらって、みんなで行ってみようという話しになった。 民宿という場は、いろんな人が来て、ゆっくり話しをできる。僕は成田さんと、民宿「街」ってどうだろうねという話しをした。 ビラと「街」ニュース送ってください。 海と風の宿のホームページのリンクも張って下さい。 4/9(日) 今日は宣伝カーに乗って、明日の三沢基地(青森県、日本唯一の軍民共用基地、爆音がすごく人々は集団移住し、街も学校も消えた)の講演があって、その宣伝をしてきた。13区を5時間かけて、成田さんの運転で宣伝した。 清明(シーミー)の為、多くの人が海岸の実家の墓を訪れ、師匠は沖縄の言葉で饒舌にスピーチした。僕は成田さんの書いた原稿をそのまま読んだ。 〒905−2266 沖縄県名護市瀬嵩182 |
4/9 |
練馬でいろんな闘いをしている人たちのお花見 |
これから、清瀬市にある全生園(ハンセン病の人たちが住む場)で、練馬の各地域で、市民運動や労働運動などをやっている人たちのお花見があります。「街」からは、則子さん、ハネやん、ようこちゃん、チュウやん、ミヤちゃん、ハッチーが参加。 午後からは、ヨッシーが「石原と知事に戦争非協力を要求する市民集会」で唄います。 夜は、サンデー夕食会です。 では、行ってきまーす。 えばっちからのメール いいなぁーーーーーーーいいないないいないいないあああーーーー そうそう、イヨイヨ発刊間近になってきたら、やっぱり えばっちも、買い取りするので、経済的に厳しいです。 いつか、必ず一緒に行きたいなぁーーー ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ |
4/8 |
えばっちからのメール |
沖縄でもチャンプルー街でも、 沖縄の青年たちは、エエ旅と出逢いをかさねてはるんやなぁーー 福島さんの写真展は、昔、えばっちも そうそう、バクチク本「キーサン革命」-精神病者のセーカツとカクメイー、来週にはゲラが上がってきそうです。 それでは、また、もうすぐ会えそうですね。 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ 沖縄派遣隊日誌・4/7 あり 今日は、キャンプしゅわぶの解放日。自転車で瀬嵩から辺野古まで40分くらい。ゲートを通る時は緊張した。道路はとても広い。土地が広々としている。 大通りを抜けて、まっすぐ辺野古の海へ向かった。地元の人が、潮干狩りをしている。本当にきれいな海だ。この海の真上に基地ができようとしている。今日はとても天気が良く、こんなきれいな海は初めて。海の水はあたたかくて、足を入れると気持ちいい。見たことのない生き物に夢中になり、岩場を歩いて行った。 生物が育ちやすい環境。しばらくすると、師匠達に逢った。師匠は誰の前でも師匠だ。子ども連れの兵士の家族に話し掛ける。彼女達は、師匠の人柄をおもしろく思い、僕達と家族は、一緒にくつろぐ事になった。朝日新聞その他のカメラマンが、あちこちで記事になる写真のネタを探している。この面白い光景を何枚かおさめて行った。クッキーとジュースを御馳走になり、そろそろ時間になると、別のビーチへ移った。 兵士達がビーチでバレーボール、キャッチボールをしている。大きな声を出して騒いでる。彼らを見ると、東洋人がおとなしい民族に見えてくる。浜でレスリングをしてる2人を見て、みんなワーワー声をあげる。僕達は芝生で昼寝。体がヒリヒリするほど日焼けして帰った。 〒905−2266 沖縄県名護市瀬嵩182 5月14日〜16日、「街」&チャンプルーズ(元木さん、中島さん)は約20名ぐらいで沖縄・名護に行く事を決定! 今日、旅行会社に申し込みます。えばっちも、一緒に行かない? |
4/7 |
沖縄派遣隊日誌 4/5 |
朝、東恩納さんが迎えに来てくれた。飯食ってる最中で、後で事務所へ直接行く事に。ゆっくんがトイレにろう城し、出発に手間取る。 去年も来た十区の会の事務所に着くと、まずビラ折り。ビラ入れに行く前に、ジュゴンが見える丘に車で連れてってくれた。その海岸は、リング状のサンゴが、波を途中で食い止め、浜辺まで波が来なくて、静か。波が来ない浜には、ジュゴンの好物の海草がよく育つ。基地建設予定地のキャンプ・しゅわぶ前の浜は、鉄さくで入れない。遠浅のサンゴの真上に基地を作ろうとしている。最近市長は、サンゴは他の海に移植すればいいと言う。東恩納さんは、サンゴが育つ環境が大切で、サンゴを移植して育つなら、そこには最初からサンゴが育っていると言った。 県や市は、基地を作るという事しか言わず、どう作るか、ジュゴンという生物がいる事など、市民に全く知らせない。知らせないから、みんな知らない。建設予定地は、建築会社から流れてきたもので、国からは全く説明されていない。キャンプしゅわぶの海軍副なんたら(わすれた)も、辺野古のきれいな海に、基地を作らせたくないが、立場上言えないと言った。軍隊の人でさえそう思っている。 丘から戻ってきて、めし食って、東恩納さんとゆっくん、沢田さんと別れて、僕は美原(三原?)に、ゆっくんは瀬嵩にびら入れに行った。僕と一緒の人は、今年一月から京都から手伝いに来てる人で、市民投票の時や、いろいろ事あるごとに手伝いに来ている人。今、辺野古では、選挙があること、市長を誰にするか決まらない事で、リコール中段。雰囲気がもり下がっている。市民投票の時は勢いがすごかったらしい。今は、市長に基地について説明してもらうよう要請していて、それが拒否されれば、何もする事ないよーと言われた。 ジュゴンの絵を看板に書いて、あちこちに建てる予定が全然進んでなくて、「人が来てくれてようやく進みそうだ」って。今日はする事なくて、5時帰りのバス停確認して帰る。 ここでは、(海風)には、佐々木恵さん(6・3すべての命のチャンプラリズム・コンサートに出る)も2回来ていた。「あの人は道じゅねーがあると必ず行っていた」 東村の高江という所に遠農に行ったり、離島にしばらく住んでたり、みんなもよく覚えていた。僕は佐々木さんみたいにはできないな。こっち来てすぐわかったのは、手伝いなんて(役に立つ)できなぃなーとすぐわかった。 あさって(4/7)は、女性の節句(旧暦3/3)しゅわぶの辺野古の海が解放される。「みんなで潮干狩りをしよう」というびらを配った。僕は潮干狩りは初めて。辺野古は厳密には十区の中の一区で、この辺り一体は、旧久志村とよばれる。国が「辺野古にしか迷惑がかかりませんよー」というキャンペーンで、基地は辺野古というイメージになったらしい。 4/6 今日はゴーヤチャんプルーとじゃがいものサラダ。にらたま。僕はへたな料理がばれるので、料理は手伝わない。ここのスタッフの杉山さんは、生活力があって、あるものでなんでも作る。歌が歌えなくて、よくしゃべる辻さん。 今日は、悩めるわかい人がひとりやってきた。成田さんと杉山さんが話しを聞く。親との関係、学校をやめた。よくわかる話し。成田さんはうなずいて話しを聞いて、ひとこと「あなた、しばらくここにいなさい」「僕はあなたみたいな人が来る為にここをつくったんだよ」そして、がっちり握手。ここは街と同じだなーと思った。 そのあと、僕と成田さんとSくんとで、いろいろ話しした。きーさんの事、沖縄の事、僕がなぜ来たか話した。成田さんの人柄の深さが伝わった。Sさんとも同じところを通ってきた人のように話せた。成田さんに街のホームページ見てもらって、ハートネットにのせていいって言ったので、のせてね。あとリンクも。 タイの障害者の人と会ったとき、違うところにいて同じ境遇の人がいたのかと、「おお、お前もかー」という感覚があった。今は、日本人はいろんな所に高校生でも外国に行けて、なんでもできて、こんなにいい面白い時代はないと話した。ハンセン病の人がいる所がちかくにあって、そこに行ってみたらと言われて、行ってみたく思った。障害者、沖縄、はんせん病、在日の人、いろんな人が一緒にいるのが面白いと、話しをし、同じ思いだなと思った。僕は心の底からどこまで感じれるかわからない。それを探しにきてるけど。成田さんのこじきしてた話しとか、人の話してる姿をみて、沖縄で新しい自分を見つけて帰れたらなと思う。 ここの人たちはみんな人と楽しくせっしている。こどもと遊んだり、(僕は子ども苦手)ここにいる風ちゃん海ちゃんは、元気で負けそうです。きちんとおこったり、自分のままでしゃべったり、僕はかたくなってあまりしゃべらない。 〒905−2266 沖縄県名護市瀬嵩182 |
4/6 |
昨日の「チャンプルー」 |
雨も降っているので、お客さんが来ないだろうな・・・と思っている時、いつも何かが起こる。 突然、ジュゴンを守る会のジュゴン鈴木さんが、髭を生やした高齢者と一緒に入って来た。「ハネやん、お約束の人、連れてきました」 なななんと、あの報道カメラマンの福島菊次郎さんだった。 1921年下松市生まれ。 〒759-6603 山口県下関市安岡町 1−1−11 ハネやんにとって、福島菊次郎さんは忘れられない人である。今から約30年前、ハネやんは「8・6 東京⇒広島 愛と怒りのゼミナール」という戦争と平和を考えるイベント列車に乗っていた。その列車には、イラストレーター・黒田征太郎、元フォーク・クルセイダース・北山修、ウーマンリブの田中美津など数百人が乗っていた。その中に福島菊次郎さんもいた。 車内で撮った数枚の写真がその後、月刊誌に掲載された。 日の丸ならぬ「赤字に白丸&『人の世』と書かれた」今の「街」の旗の原型となる、「赤字に白丸&『兵役拒否の誓い』と書かれた」旗の下に、少し不安げな横顔の青年の写真が載っていた。それが、若かりしハネやんだった。 ハネやんは一度も、福島菊次郎さんと話したことはない。昨日が初めて話をする機会となったが、その写真が掲載されてから数え切れないほど、日本中の様々な闘争現場で写真を撮っている福島菊次郎さんと出会っている。 彼がその写真を撮ったのは、今のハネやんと同じ歳の頃。あれから30年経ったが福島菊次郎さんは80歳を越えてもなお、かくしゃくとしていた。今度、週刊金曜日の後押しで、東京に福島菊次郎写真資料館が出来る。そのために下関から東京に引っ越してくるという。 日本中で、現在、唯一とも言える報道カメラマン福島菊次郎さん。彼の一葉の写真で、ハネやんは今のような人生を生きることになった。 菊さん、これからも、ヨロシクお願いします。 |
4/5 |
沖縄派遣隊からの報告 その@ |
4月3日(月) 1日目 あり 沖縄は予想外にムシ暑い!着いてすぐバスに乗り、コバルト荘に向かった。照屋さんはいなくて、ゆっくんと国際通り、平和通りを散歩。何もする事がなく数時間、ただ歩き、疲れた。 夜、照屋さんが帰ってきて、お話をした。 照屋さんは昨年暮れから、息子さんの調子が悪くて、そっちが大変で辺野古の方がどうなってるかわからない。自身も目がかすむ病気で今日は6時間の兼さの為、昼間はいなかったらしい。明日も朝から検査。ヘリポート基地反対協の新城さんや、伊江島の「土の宿」という所も紹介してくれた。 僕は普段、人の後ろに隠れて、人と接しないので、今日は疲れた。「沖縄に関心持って、カンパまでもらってくるなんてエライね〜」と言われたけど、去年の平和行進の話されても、行った自分自身、何なのか把握できてなくて、会話にならない。おちこむ。 でも、沖縄の人は親切。いろんな人を紹介してくれたり、あちこちで人に道を教えてもらった。 話が終わり、照屋さんに教えてもらった沖縄料理屋へ、ゆっくんと二人で晩めし。ドゥルワカシー、グルクンから揚げ、ウムクジプットルーなど、食べたことないものを狙って頼んだら、全部イモ料理だった。しょうがなく全部食べた。 作った人もイモばっか食ってど〜するんだろうと思っただろう。田芋という田んぼでできる沖縄のイモ。「チャンプルー街」の料理の穴はイモ料理だった。 その後、知念良吉さんに電話して「週末に『海と風の宿』に行くかもしれないので、会えたら会いましょう」といわれ、「沖縄にいるうちはこまめに連絡してね」と言われた。 4月4日(火) 2日目 あり クリスは居合道をやってて、武者修業の為に、沖縄から東京まで旅している途中。東京に戻ったあと、オーストラリア、ニュージーランドなどまわり、帰って居合三段の試験をうけて、それが終わって、その後何をするか考えるらしい。6月頃東京に帰った時、「街」に来ると約束。僕が戦争反対の歌を歌うというと「カナダ人だから殺さないで〜」と言っていた。 途中で降ろしてもらう予定だったが、親切に、「海と風の宿」の目の前まで乗せてもらった(ありがとうございました)。 「海と風の宿」に着いて成田さんに会った。「街」の話をすると、「海と風の宿と街は親戚になりましょう」と言われて、がっちり握手をした。 今、辺野古はリコールしたあと誰を市長にするか、代表を選べなくて、リコール中断中。 明日(5日)、東恩納さんが忙しい中、朝「海と風の宿」に来て、僕たちと会う時間を作ってくれました。でも、何を話したらよいのだろう。 成田さんも忙しそうな人で、昨日は寝てなくて、さっきまで寝てて、今はオフィスで書き物をしてたり、電話してたり。みんなのこの人への信頼は厚そう。 こっちはー泊2000円、7泊以上は1500円、夕食は600円、みんなで作る。スタッフがいて、4ヶ月間のスタッフ生活を終えて千葉へ帰る人、栃木から来て3日目の人。若い人が何かを求めてここにやってくる。 ここには師匠(金城繁さん)と呼ばれる人がいる。この右腕の無い師匠はただ者ではない。去年沖縄の「御万人(うまんちゅ)(沖縄の言葉で「民衆」という意味)祭り」にもでていた。名護で三線の先生をしている。ここにも遊びに来る。 ゆっくんはここのスタッフの女の子に気に入られたもよう。 ならんさヘリ基地の唄 唄・三線 金城 繁 一、変わんなようやー ウチナァンチュ 二、金にふりとーる 人達や 三、海ぬ美らしゃや 辺野古崎(ひぬくざち) 五、心許すなウチナァンチュ |
4/4 |
今日の沖縄派遣隊 |
今朝、アリちゃんとユッ君が沖縄に出発しました。二人ともギターを持っての旅。いつもはヨッシーとトリオで演奏していますが、今回は二人のユニットになります。ハネやんが「シークワーサーズ」(沖縄のヒラミレモンの事)と名付けました。沖縄初日は那覇にある「全国ハートネット」に載ってるチム・ステイ民宿「コバルト荘」に泊まります。昼間、シーク1号・2号=坊主刈と人参色ヘアーの奇妙なコンビで國際通りをブラついていたみたいです。 『チャンプルー』が休みなので、みんな「ハウス街」に集まって夕食会をしてると、アリちゃんから電話。照屋さんの仲介で名護・辺野古の東恩納さんの民宿でお世話になることになりました。素泊まりで一泊2千円也、安い! 夜は多分、『チャンプルー』の初代シェフ、徳ちゃんとお酒を飲んで旧交をあたためていることでしょう。また明日の報告を待ちましょう。 『街』のお花見 他の共同作業所のオナベちゃん、加代子さんを含めて20人ぐらいと愛犬のマック・麟太郎が参加。食事の後、最初は静かに歌っていたが、イチローさんが公園の滑り台の踊り場に登って、大声で歌いはじめました。公園で遊んでいた子供たちが怖いもの見たさで近づいては・逃げながら・・・注目していました。詳細はまた今度。 花見の感想 4月4日の街 昨日からありちゃんとゆっくんが沖縄にいきました。 沖縄のシークワーサーズは今ごろ辺野古へむかっているかなぁ? |
4/3 |
「沖縄世文庫放火」を共に怒り再建に向けお力添えくださった皆さまへ |
私たちの共同の事務所である沖縄世文庫が火災に遭ってから一ヵ月半、まもなく春・4月を迎えようとしています。その後の経過報告と改めてお礼をお伝えしたいと思います。 毎日毎日寄せられるカンパ金は3月29日現在、208名216万1千円となりました。正直なところ想像を絶する数字です。さらに金額では表せない支援もいただきました。御万人の皆さんが、出来る支援の限りを尽くしてくださつたことをヒシヒシと感じています。3月3日の再建アララガマコンサートには約130名の参加と30万円のカンパ、そしてあふれてやまない平和世への想いがありました。有り難うございました。 焼けてしまった大林マンション301号室『沖縄世文庫』について、 そんな中で「今よりずっと立派な事務所を再建することが、卑劣な暴力に屈しないことですよ」と声を大にして励ましてくださつた高岩仁さんはじめ皆さま方の熱い支援は、未来へと踏み出すエネルギーとなりました。マイナスをプラスへ!そう進んでいこうと思います。名残惜しい空間です。最後の荷物をだしながら、ナゼ・・とまた怒りがよみがえりもしますが、皆さまのおかげで、今、ここにあるのはプラスの状況ばかりです。 心から、ありがとう、と思いながら、301号室を出、再スタートです。 出火の原因である「放火」の件、なんら解決には至っていません。私たちが屈せず闘っていくなかで、明らかにされ、裁かれていくだろうと確信しています。 新たな事務所について、早くご報告出来るように・・いえ誰よりも何よりも私たち自身が活動に支障をきたしているのですから、多くの皆さんと出会える場、エネルギーがあふれでる場を一刻も早く、と探し動いています。 4月28日、命どぅ宝ネットワーク主催の「命どぅ宝・平和世コンサート10th」が開かれます。その日、嬉しいご報告が出来るようにしたいです。沖縄かがやけ!御万人かがゆけ!と、きらめく時を共に創りましょう。 再建の日の出会いを楽しみに、感謝と感動と連帯のおもいをこめて・・、 2000年3月29日 命どぅ宝ネットワーク・エスニックコンサート実行委員会・沖縄研究会 追伸 3月3日、再建アララガマコンサートの際、お出でいただいた皆さん、私たちは、当日、記帳ノートの用意を忘れました。再建の折、皆さまにご案内を差し上げ共に喜び会いたいのです。住所・氏名をご一報ください。「3月3日」と明記して |
4/2 |
沖縄派遣隊の追加 |
昨日の「チャンプルー」での話し合いの中で、沖縄派遣隊員の追加がありました。7日に大学の入学式を控えたユッ君(ハネやん・ジュニア)が沖縄に行く事を表明しました。たまたま来ていたジン君もその後で、沖縄に行きたいという話になりました。今、「街」では「私も行きたい!」という話が続々と出ています。 ということで今日は、サンデー夕食会+沖縄派遣壮行会+Mickのライブと盛りだくさんの内容になります。午後5時スタート。アリちゃんに激励の電話を送りたい人は、5時過ぎにお願いします。 那覇のTさんに電話したら、3/17集会に名護・辺野古から参加し発言していたHさんとは知り合いということで、アリちゃんは辺野古で生活を送ることになりそうです。 全国の「病者」の皆さん、アリちゃんが沖縄・名護にいますので是非、一緒に闘いませんか! えばつちからのメール(3/31) その1 やっほーーーーーううううううううう!!!!! (則子さん)早速エプロン姿で女将さんしてはるんですかぁ
いゃぁーーーうちの相方はんの島田さんも。 この世は、女性陣でまわってるんやぁ、ほんま。 バクチク本「キーサン革命」−精神病者のセーカツとカクメイ− チャンプラリズムに間におうたら、エエんですが。 その2 ヨッシー見たでえーーー その3 ありぃ、沖縄行くってかぁーーーー えばっちより ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ |
4/1 |
アリちゃんを、沖縄へ代表派遣! |
練馬の集会や、3/17の「沖縄・名護に新しい米軍基地を作らせない大集会」に「街」は総力をあげて参加してきました。そしてヨツシー・アリちゃんは集会の中で「総理へ」「都知事様」を唄ってきています。4月末にも数カ所の集会に呼ばれて唄います。 普天間基地の名護新基地移設攻撃、そして7月沖縄サミット。沖縄の民衆の闘いは、ただ沖縄・名護の現地における闘いとしてあるのではないと思います。 アリちゃんはこう語っています。「戦争につながる基地を作ることを許したら、戦争の中では人が人として生きていけなくなります。日本政府、アメリカが沖縄の辺野古に作ろうとしている基地を作らせないためには沖縄の人達だけが頑張るのではなく、日本本土の人達も反対をしていくことが必要だと強く感じました。これは沖縄の問題ではなく、キーサンをはじめ日本人全体の問題なのだ・・・と!」 「街」は今、6/3「すべての命のチャンプリズム・コンサート」を準備しています。私たちは、このイベント・コンサートを通して、更に沖縄の闘いに連帯していきたいと考えています。その第1弾として「街」は、アリちゃんの沖縄派遣を決定しました。「チャンプルー」の営業は大変になりますが、4月一杯を予定しています。 名護・辺野古を中心に、「基地移設攻撃・沖縄サミット反対!」読谷の仲宗根さん、知念良吉さん、まよなか・しんやさんたち・・・ 沖縄の人たちと共に闘います。アリちゃんの闘争資金へのご支援、よろしくお願いします。 |
3月A | 4月A |
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