「街」チャンプルーハネやん..
Part・2 激動の3年間

 「チャンプルー」にデイケアのメンバーと共にいくようになった。「当事者」と呼ばれる人たちがいろいろ客で来てる。少しずつ「この世界」に深入りしていくにつれ安心する反面それまでの社会とだんだんずれていっている自分を感じ怖くなって来た。

 バンドの世界も一般といわれる価値観とは離れたところで形成されている世界だがひとけた上の異世界に足をふみいれてしまったような気分である。ぼくはあがきにあがいた。無理矢理バンドをくんでみる,全然ダメ。すぐにつぶれた。車の免許を取れば少しは変わるかと思いのりこさんの郷里である栃木県に合宿で免許を取りにいけば,地元の暴走族にからまれ(うそをついて逃げた)同じ合宿免許を取りに来ているバリバリの20歳位のヤンキー達30人位に取り囲まれそのうちの一人と便所でけんかする羽目になった。大人数をまえにすっかりビビッテなすがまま。こん時ばかりは「我が人生最悪の時」とか感じた。

 たぶんそれまでの生き方が何かいい加減でうつになりどんよりとして毛をさかだてた猫のようになっていた僕はいやみなニヒリストの如きオーラを発していたのであろう。今ではその時にタイマンをはったハードコアパンクである横浜連合の頭という少年(それほどの剛の者とはかんじなかったので嘘かもしれない)にはまことに感謝している。人生とはおもしろい者である。うつ病の僕にとってはいささかキツイ試練ではあったが。

 それでもあがきはまだ続く。なんと僕は知り合いのコネでこともあろうに不動産会社に就職したのである。やくざと勘違いしてしまいそうなその会社の専務。ノルマというフリーターにはまったく関係のなかった価値観で動く世界・・・もうパンクやロックのことは半ばどうでもよくなっていた。うわべだけは・・・僕はそれこそ笑う練習を鏡でし,休日出勤皆勤賞,朝から夜中まで必死で働いてみた。どうやらそこでもパンクでありたいと願ったらしい。

 しかしそんなものは長続きするはずもない。いつしか会社帰りには近くの小指のないおじさんが経営しているリサイクルショップに行きギターなんかを引く始末。あまりもうかっていなそうな店だったがおじさんにごちそうしてもらった缶コーヒーは今でも忘れられない・・・それほど一人ぼっちだったのである。

 昔のことが思い出される。バンドはもうむりだ・・・そんな折り町田(会社はその辺にあった)の駅前で弾き語りをしている少年達に目がいくようになった。「これならどういう立場にいようと自分を表現できる!」と感じた。実はその前にも「チャンプルー」の夕食会で弾き語りはしたことがあった。結果はてんでダメ。それでも「おれはパンクのボーカルなんだから弾き語りなんて、かんけーねーや!」と無理矢理自分を言い聞かせたものである。そのフォークギターがその疲れた体と頭になんと輝かしく映ったことか!!

 ある日専務にチクチクとやられ、しまいには俺の家庭環境の悪口まで言い出しやがった。僕の悪魔の心がめらめらと燃えだした。その夜の帰りもらったばかりの携帯電話から104番をかけた。車を横付けした中でである。「すいません,東京練馬区の沖縄料理店で「チャンプルー」という店の電話番号をおねがいします」NTTの女性がかしこまりましたと番号を教えてくれる。そして僕はなつかしい「チャンプルー」に電話をかける。コールが何回かされると誰かがでる。

 「すいません,仁ですけどハネヤンいますか?」

 もはや「チャンプルー」で過去の人となっていた僕に電話の主は少し不思議そうである。やがてハネヤンにかわった。酒でいつものようにヘロヘロの様子である。

「はい ハネヤンです〜〜。あ〜〜そう〜〜。そんなとこいたらね〜〜,俺なんか即、窓際族ね。ん〜〜〜。でもやめないの。はいはいはい,チュッチュッチュ〜〜〜」

 俺は笑った。ほんとに久しぶりに腹の底から笑った。なんだか楽しくてしょうがなかった。そしてあくる日、専務のいやな視線に耐えてからお昼に大事な書類を銀行まで届けにゆき,町田の駅前の八百屋でバナナを買い、そこの親父と楽しくたわむれた後、会社をばっくれるのである! 

 海を見たあと一路「チャンプルー」へ向かって! 

 ほんとにしょうがないやつである。会社も困ったであろう。専務はちょっときびしくしすぎたとあやまっていたと母から聞いた。寂しさを感じさせていた僕を実はとても期待して厳しくしていたらしい。恩や迷惑はいまさらどうしようもないが,音楽をしっかりやって成長する事で恩をかえしたいと思っている。

  <つづく>

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