チャンプルーハネやん..
Part・4 青春の悶々

話は不動産会社をやめた頃,97年の5月にさかのぼる。僕がかなり貯金があって「しばらくはホントにスキナコトシカヤンナイ」と決意していたことは前に書いた。ともかくすったもんだの挙句ハネヤンがそれまで遠まわしにアドバイスしてくれた事や実際に「街」を立ち上げた動機などにふれ、心の底から「この人に関わりたい」というのがその時とてもしたい事だった。

 チャンプルーで弾き語りをやりつつそれでも昼間の時間が思うようにいきいきと過ごせないので,この際アルバイトではなく「街」という「作業所」のメンバーになれないものかとのり子さんにお願いしてみた。表現のしかたとして適切ではないかもしれないがその頃の「街」はいまのそれほど活気は無かったように思う。

 「街」も千変万化しているのだ。今こういったネット関係での来訪者や意識的に「街」を選んで来ているメンバーの存在などを含めて「街」全体が本当にエネルギッシュ克つ飛びぬけた空間となっている。それに比べてしまうとやや劣るかなという印象もしないでもないが,それでも当時から工賃なども含めて「オープンスペース街」という作業所は他の場所からしてみると飛びぬけてユニーク(あえてこう表現しておく)だった。

 自宅だったしそれまでの「成すべし」的な発想から離れたいという思いもあり,大好きな場所「街」で実際に働きたかったのだ。一日の工賃でそれなりに家族の援助とともにやっていけそうだとの確信もあった。そして5月の末頃、満を持してめでたく「街」のメンバーとなるのであった。 

 さて「街」に特別な思いをいだいて入っていくことを述べているわけだが、ここに至る契機としての初めての施設体験である「慈雲堂デイケア」での日々について語っておきたい。その年1996年,というのはそれまでの一般就労というものを一時「待った」して、ただのらりくらり真剣に自分の深いところを見つめていこうと決意していた。その当時で25歳。バンドマンとしてもひとくぎり,転換期の年齢であり実体としての「バンド」も当然すすめていて然るべき歳である。逆にいうと「この先もやってくのかそれともあきらめるか」という最初の選択に迫られる歳でもある。

 しかしその当時の僕は長いノイローゼの渦の中で、自分の周囲の人間関係をことごとくつぶしてしまっていて長いつきあいの心から安心してつきあえる仲間達からももはや追放されていた。理屈をなまじこねるのでさらに嫌われていく。いくら音楽への想いを盾にとったとしてもやはりそこはそこ,「人間関係」ベースである。そんなわけで唯一の生きる糧であったバンドの立ち上げも一時「待った」することにした。本当の志であったバンドへの想いもこの先どうしようとは考えないことにした。それはとてもとてもつらい決意ではあった。しかし真剣に「デイケア」での今後を考えリハビリ期間としてこの一年をおくってみようと思っていた。そんな想いでおそるおそるデイケアに通い出すわけだが,どうも様子が違う。 

 前もって触れておくと僕は入院経験というものがない。だから拒食症を主に抱えていた僕にとって深刻な躁鬱やまして分裂の人達などのことはまったく知るよしもなかった。デイケアのメンバーが僕にたずねる。「あなたの症状は幻覚?それとも幻聴?」。僕はいろいろごちゃごちゃ考えてしまって落ち着く暇がないというような事を言った。「あ〜〜妄想だ〜〜!!」彼女は言った。ああ妄想っていうんですかなどと答えたがよくわからない。とにかく分裂病というものの具体的な症状をデイケアでの友人に聞くにつれ信じがたい驚きにかられたものだった。そして「ここ」が実は全くリハビリのための施設などではどうやら「ない」ということも・・・。そして次第に保健所の労によってここに来たことも、どうやらそう言う意味では「ない」らしいということも・・・。

 僕は信じられないほど戸惑った。それはこうした「病」にみまわれた人の誰もが初めに絶望するように・・・。僕の心はもうあがくなんてもんじゃなかった。「死ぬかこのまま行くか?」という選択を迫られるように。どうにもならない思いは訳のわからない行動をとらせる。スポーツジムで反吐を吐くほどに鍛えまくるなんてのはかわいいもの。もう出会った精神世界の本を頼りに実に1日6〜8時間ほどきっかりと教えるとうり「ヨガ」の訓練をはじめた。

 ポーズの鍛錬をざっとこなすのに大体2時間。そして非常に意識的に「呼吸法」の鍛錬をこなすのに3時間ほど。脱カルマ法というのはやって慣れてくると冗談でもなんでもなく閉じた瞳をしばらくして開けるとグルグルに世界がまわってみえる。翌々あとになってみるとかなり体には悪そうな気がするので誰にもおすすめはしない。そして全てのメニューの最後には座禅をしながらヨガのなんかの言霊のひとつだとか言う言葉を大きく唱えるのである。なんと「オーーウーーームゥーーーー」と唱えると書いてある。時はまさしく「オウム事件」で世間が騒ぎに騒いでいた時。ほとんどすがる思いでなんとかこの苦しみから逃れられないかと必死に「オームーー」と唱える僕がいた。約2ケ月ほどつづけてどうやら「こつ」も分かってきていたが、あまりに空しいのと、あまりにも「ロック」で無いのと、あまりにもあぶない気がしたのでやめた。<つづく>


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